名前清水直行(シミズナオユキ)
生年月日1975年11月24日
日本
出身京都府京都市下京区
プロフィール兵庫・報徳学園高から日本大学を経て、社会人野球の東芝へ。140キロ台後半の速球を武器に活躍。

1999年ドラフト2位でロッテに入団。同年5月対近鉄戦で初勝利。2001年、チームの開幕12連敗を止める先発勝利。同年はローテーション投手に定着して14勝をマーク。2004年、アテネ五輪日本代表として銅メダル獲得。2005年、10勝でチームの日本一に貢献。

2006年、第1回WBC日本代表として初代王者に貢献。シーズンでは5年連続二桁勝利を達成。開幕投手も4度(2004、2005、2007、2009年)務める。2007年、二桁勝利が5年で途絶えるも、2008年復活の13勝。

2009年オフにトレードで横浜へ移籍。2010ねn、通算100勝をマークして自身7度目の二桁勝利達成。その後不振に陥り、2012年は一軍試合登板無しに終わり、戦力外通告。2014年3月ニュージーランド野球連盟のGM補佐と野球ニュージーランド代表のコーチに就任。

通算成績は294試合、105勝100敗、防御率4.16、1,677回1/3、1,154奪三振。報徳学園卒、日本大学卒、180センチ、80キロ。右投右打

アマ時代、投手としての実績は乏しかったものの千葉ロッテ入団

清水直行は、京都で生を受けましたが、その後兵庫県へ転居します。西宮市立高須東小学校入学と同時に、武庫川イーグルスに入団して野球を始めると、6年間皆勤賞をとるほど熱中しました。その後、高須中学を経て、名門・報徳学園高校に進学します。しかし当時は、目立った活躍をできず、在学中も甲子園出場はできませんでした。

高校卒業後は、兵庫県を離れ、日本大学に進学します。大きく頭角を現したいところでしたが、ベネット骨棘、投球障害肩、腱板炎を発症し1年秋から、丸2年間のリハビリを強いられました。1998年、球界としては無名のまま、東芝府中へ進みます。チームは都市対抗野球、日本選手権に出場しましたが、ともに登板機会はありませんでした。翌年、都市対抗で初めて登板しましたが、満塁本塁打を浴びてしまいます。この試合を最後に、野球部は活動停止したため、東芝硬式野球部所属となりました。ここまで突出した成績を残してないものの、過去に落合博満、初芝清などロッテへ選手を送り込んでおり、スカウトの目に留まります。すると1999年ドラフト会議では、千葉ロッテを逆指名して入団が決まりました。

プロ野球ワースト記録を阻止すると、先発ローテーション投手に定着

25歳のオールドルーキーは、5月の初先発で6回2/3を1失点と結果を出して、プロ初勝利を手にします。その後リリーフも多く経験して、後半は先発に定着しましたが、3勝6敗、防御率6.12、さらにはリーグワーストの13暴投と安定感を欠きました。2年目はオール中継ぎとして、31試合に登板し6勝2敗とまずまずの成績を収めます。そして防御率は、3.74と大幅に改善させました。

2002年も中継ぎスタートしましたが、黒木知宏、小野晋吾と先発の柱が怪我で離脱し、チームは開幕11連敗と最悪の状況に陥ります。次の試合に負ければプロ野球ワーストの開幕12連敗という時、清水直行は先発としてマウンドに上がり、それを見事に阻止しました。その後は、先発ローテーションとして初めて規定投球回数をクリアします。そして自身初の二桁となる14勝をマークし、エースへの道を歩み始めました。

5年連続二桁勝利を達成し、2005年には自身初の日本一を経験

2003年、シーズンを通して先発としてマウンドに立ち、パ・リーグ唯一の200イニングをクリアします。防御率もリーグ3位の3.13と安定し、チーム最多の15勝をマークしました。2年連続で好成績を残し、2004年は初の開幕投手に抜擢されます。10勝11敗とトータルでは負け越しましたが、同年アテネ五輪日本代表としても戦い、日本の銅メダル獲得に貢献しました。

2005年も2年連続で開幕のマウンドに立ちましたが、楽天に球団初勝利を献上します。3年連続で防御率3点台をキープしましたが、成績は前年同様10勝11敗と2年連続で負け越しました。しかし、チームは6人もの二桁勝利投手が誕生し、10年ぶりの2位を確保します。そしてプレーオフも勝ち抜き、31年ぶりのリーグ優勝も成し遂げました。阪神との日本シリーズも、大事な初戦の先発マウンドを託されると、濃霧コールドながら7回完投でチームに勝利をもたらします。勢いに乗ったチームは、そのまま4連勝して見事な日本一を達成しました。

2006年はシーズン前に、第1回WBC日本代表に選出されると、2試合で1セーブの成績で日本の初代王者獲得に貢献します。その後のシーズンでも、10勝8敗と5年連続二桁勝利を達成するなど、まさにマリーンズのエースとして活躍しました。

連続二桁勝利が途切れ、家族の不幸に見舞われながらも復活

2007年、自身3度目の開幕投手を務めるも、不安定な投球が続き、6年連続二桁勝利を逃します。翌シーズン、復活を期して挑みましたが、キャンプ直前に最愛の妻を病気で亡くすという不幸に見舞われました。それでも、ほとんどその事実を知らせず、トレーニングに徹し、2008年シーズンを迎えます。開幕から2試合結果が出ませんでしたが、3試合目に完全復活を告げる完投勝利を挙げると、同年はチームトップタイの13勝をマークしました。

2008年シーズン終了後、FA宣言せずにチーム残留を選択します。そして2009年は再び開幕投手の座を取り戻しました。しかし、再び不調に陥ると、同年は6勝に留まります。すると、オフには、那須野巧、斉藤俊雄との交換トレードで横浜ベイスターズへの移籍が決まりました。

横浜に移籍して通算100勝をマークするも、2年後に解雇通告

リーグが変わっても実績十分の清水直行は、開幕から先発ローテーション投手として働きます。リーグワーストの防御率5.40でしたが、チーム唯一の二桁10勝をマークして最低限の仕事をやり遂げ、同年は通算100勝もマークしました。しかし、翌年は怪我から一転して不調に陥り、10年ぶりに規定投球回数をクリアできません。するとオフには、プロ野球史上最大(当時)となる年俸2億円減を言い渡されます。背水の陣で挑んだ2012年も、一軍登板ゼロに終わり、戦力外通告を受けました。

現役続行を諦めると、ニュージーランド野球代表のコーチに就任

現役続行にこだわり、ヤクルトの入団テストを受ける予定でしたが辞退します。その後、引退宣言しないでいましたが、WBC解説をしているうちに世界の野球に興味を持ち始めます。そして2014年3月に引退を発表すると、ニュージーランド野球連盟のGM補佐と野球ニュージーランド代表のコーチに就任しました。世界ランキング的には20位前後のチームにおいて、技術指導にあたりながら、野球普及に奮闘しています。


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