名前石井弘寿(イシイヒロトシ)
生年月日1977年9月14日
日本
出身千葉県市原市
プロフィール小学5年生から野球を始める。中学時代、市原ポニーベースボールクラブに所属し、東京学館高校に進学。甲子園出場経験なし。

1995年ドラフト4位でヤクルト入団。2000年対広島戦で先発初勝利を飾る。その後、中継ぎに定着。2002年には、リーグ最多の69試合に登板して、防御率1.51で最優秀中継ぎ投手のタイトル獲得。その後も安定した成績を残し、2005年にはクローザーとして、球団最多の37セーブをマーク。

2006年、第1回WBC日本代表に選出。しかし、事前合宿で左肩を痛める。故障を押して第1ラウンドに登板するも、敗戦につながる逆転2ランを浴びる。同年秋には左肩腱板断裂修復手術。

その後リハビリを続けるも、一軍マウンドに戻ることなく、2011年現役引退。2012年からは、ヤクルト二軍投手コーチに就任。

通算成績は339試合、27勝15敗55S、11ホールド、防御率2.66、426回2/3、485奪三振。最優秀中継ぎ投手1回。東京学館高卒、左投左打、180センチ、80キロ

石井一久に憧れて背中を追い、ヤクルトでチームメイトになる

石井弘寿は、千葉県市原市に生まれると、父親の影響で小学5年生から野球を始めます。中学生からは、市原ポニーベースボールクラブに所属して、投手兼外野手を務めました。そして当時、ヤクルトに所属していた同じ左腕の石井一久に憧れて、その背中を追います。憧れの選手の後輩になるため、東京学館高校へ進学しました。しかし、大きな勘違いをしており、石井一久の母校は東京学館浦安高校でありました。

その後、1学年上の相川亮二が外野手から捕手に転向したため、バッテリーを組むようになりました。そして、その相川見たさにスカウトが訪れたときに、光るものを見せたことで注目され始めます。3年最後の夏は、県大会でもベスト16と甲子園には遠く及びませんでした。それでも将来性を買われ、東京学館としては前年の相川に続いてプロからの指名を受けます。ヤクルトスワローズから4位指名を受けて入団し、石井一久とチームメイトとなりました。

スピードはあるも制球難が治らず、打者転向すら囁かれ始める

高卒ルーキーながら、1年目の夏に一軍に昇格して初登板のチャンスをもらいます。リリーフで初勝利もマークしましたが、イニング数を超える四球を出すなど、不本意な成績に終わりました。その後も制球難の悪癖は治らず、翌年はわずか1試合の登板、さらに続く1998年にいたっては登板無しと、得意の球速を生かせず大きなスランプに陥ります。1999年は、中継ぎとして25試合登板しましたが、チームワーストの防御率6.28に制球難は相変わらずだったため打者転向すら囁かれました。

ロケットボーイズの一角として、最優秀中継ぎ投手タイトル獲得

2000年、キャンプから伊東昭光コーチの指導のもと、制球難克服に取り組みました。シーズンが始まると先発としても起用されましたが、結果が伴わず再び中継ぎに戻ります。しかし、前年までと異なり安定感があり、五十嵐亮太に次ぐ45試合に登板しました。成績も4勝3敗、防御率3.30と一気に改善させます。2001年も、貴重な左のセットアッパーとして39試合に登板2勝3敗1セーブ、防御率3.40とチームの日本一に大きく貢献しました。

チームのクローザー高津臣吾につなぐ左右のセットアッパーとして、五十嵐と石井弘寿の両輪は勝ちパターンとなりました。ともに、日本人最速の球速を大きな武器としており、公募によって「ロケットボーイズ」という愛称ももらいます。すると石井は、2002年、生まれ変わったかのように好成績を残しました。かつての制球難は全く鳴りを潜め、イニング数をゆうに超える三振を奪っていきます。同年はリーグ最多、球団新記録の69試合に登板して6勝2敗5セーブ、防御率は脅威の1.51でした。自己最速の155キロも計測して、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得するなどまさに飛躍の年となります。五十嵐も同年は64試合に登板するという、まさにロケットボーイズが揃って活躍しました。

チーム事情で代役クローザーに抜擢されると球団セーブ記録樹立

左のセットアッパーとして独り立ちした石井弘寿は、以後も安定したピッチングを続けます。2003年は怪我で36試合出場でしたが、防御率1.99と無双振りを継続しました。2004年も三振が取れる豪腕としてチームに貢献し、夏場にはアテネ五輪日本代表に選出されます。国際試合でも4試合5イニングをピシャリと抑えて、日本の銅メダル獲得に貢献しました。

2005年は、不調の五十嵐亮太に代わってクローザーに抜擢されます。より精神的に厳しい場面での登板が多くなりましたが、61試合に登板して、4勝3敗37セーブ、10ホールド、防御率1.95で球団最多セーブをあげるなど、文句なしの活躍を見せました。

左肩の怪我を抱えながらも投球したWBC日本代表という重み

2006年、第1回WBC日本代表に選出されます。シーズン前の3月から戦いが始まるということで、当然早めの調整を強いられました。順調に過ごしていましたが、事前合宿で左肩に異常が起こります。インピンジメント症候群を発症しましたが、日の丸を背負っていた石井弘寿は、痛みを抱えたまま1次ラウンドへ臨みました。

試合当日には腕が上がらない状況でしたが、第1次リーグの韓国戦、2-1とリードした終盤、石井の出番がやってきます。しかし韓国の主砲・李承燁に逆転2ランを浴びて日本は敗戦しました。その後、2次ラウンドへ向けて自身も渡米しましたが、肩の痛みは増して途中離脱を余儀なくされます。同年シーズンは、11試合の出場に留まり、秋には左肩腱板断裂修復手術を受ける羽目となりました。

無理した怪我は大きな代償となり、一軍マウンドに戻ることなく引退

WBCで無理したことは、結果的に石井弘寿の選手生命を終わらせてしまいました。2007年は一軍登板無しに終わり、2008年、終盤に二軍戦で復活登板します。しかし、かつて最速155キロを放った球威は戻りません。その後も、一軍マウンド復帰を目指して、リハビリをしましたが、願いは叶いませんでした。結局、2011年限りで現役引退を表明します。引退試合では、高校時代の先輩・相川亮二とプロでは最初で最後のバッテリーを組み、現役生活に別れを告げました。2012年からは、ヤクルトの二軍育成コーチに就任し、自身の経験を生かしたコーチングを行っています。


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