名前渡辺正和(ワタナベマサカズ)
生年月日1966年4月12日
日本
出身佐賀県佐賀市
プロフィール佐賀西高2年の夏、佐賀中央工戦で17奪三振をマーク。筑波大学進学後も投手として活躍し、1987年の首都大学野球での初優勝に貢献。5勝3敗でMVP、最優秀投手にも選ばれた。明治神宮では史上初の国立大学優勝を牽引。また、日米大学、アジア選手権の全日本メンバーとしても活躍。卒業後、東京ガスに入社。

1992年11月ドラフト5位でダイエーに入団。1994年に4勝するが、1995年左肩じん帯断裂で手術を受ける。2軍を経て、2000年には中継ぎの柱としてリーグ優勝に貢献。その後も貴重な中継ぎとして、4年連続45試合以上に登板。2003年も46試合に登板するも、防御率4.95で同年オフ戦力外通告。

2004年1月現役引退。同年福岡大学入学。教職をとり、2007年からは同大学投手コーチとしてプロ野球選手を育成。2015年からは同大学野球部監督に就任。

通算成績は264試合、15勝9敗1S、防御率4.18、301回2/3、177奪三振。筑波大学卒、181センチ、85キロ。左投左打

筑波大学エースとして、史上初の国立大学による全国制覇を達成

渡辺正和は、佐賀県佐賀市に生まれ、幼少の頃に父をなくしたため、母子家庭で育ちます。母のしつけは厳格で、文武両道をモットーに学生時代を過ごしました。城北中学から、進学校として有名な効率佐賀西高校へ進学し、野球部でも2年生からエースを任されます。1983年、1984年とともに県予選で準決勝進出しましたが、ともに敗れ甲子園には縁がありませんでした。

卒業後は国立の筑波大学へ進学します。さらに野球人として実力をつけると、筑波大学の歴史に名を残す偉業を成し遂げました。3年となった1987年、秋季リーグで1学年下の小林昭則と投手2枚看板を形成し、首都大学リーグで初優勝を飾ります。MVP、最優秀投手の看板を引っさげて明治神宮野球大会に臨むと、東北福祉大学や東洋大学を撃破して世間を驚かせ、決勝でも延長戦の末サヨナラで、法政大学に勝利しました。国立大学として初となる全国大会優勝であり、まさに母の教えである文武両道の集大成です。同年は、日米野球日本代表メンバーにも選出されました。その後、東京ガスに入社すると、補強選手として2年連続で都市対抗野球大会に出場します。熊谷組の補強選手時代は、準決勝で完投勝利を挙げるなど大活躍しました。

即戦力として26歳でプロ入りも、2年間不本意な成績が続く

1992年、ドラフト会議で、福岡ダイエーホークスから5位指名を受けて入団します。大学、社会人を経てのプロ入りのため、26歳のオールドルーキーとなりました。当時のダイエーは、南海ホークスから球団名も親会社も変わりましたが、同年まで15年連続負け越しのプロ野球ワーストタイを記録するような低迷期でした。しかし、同年オフにチーム作りに定評がある根本陸夫が監督に就任し、福岡ドームを新たな本拠地としてリスタートを切りました。

渡辺正和は、開幕第2戦で初登板という、同期入団の投手の中で最も早い一軍デビューを飾ります。6月には初先発、2度目の先発では初勝利を9回1失点完投で記録するという即戦力としての実力を見せ付けました。しかし先発6試合では結果が出ず、中継ぎへ配置転換されます。1年目は24試合に登板して、1勝3敗、防御率5.14という不本意な成績に終わりました。2年目は、オールリリーフで21試合に登板して、4勝1敗と白星が先行します。しかし防御率は4.18と安定感はありませんでした。

左肩じん帯断裂で一軍不在の中、チームはダイエーとして初優勝

1995年からは、王貞治が監督に就任し戦力になりたいところでしたが、左肩じん帯断裂という選手生命を脅かす大怪我を負います。即手術を受けましたが、当然のように長いリハビリ生活を余儀なくされました。同年から丸2年間を棒に振り、1997年、一軍マウンドに復帰しましたが、一軍で投げるレベルではありません。さらに度重なる故障も負ったことで、毎年戦力外通告に怯えました。1998年もわずか3試合の登板、1999年は再び一軍登板ゼロに終わります。その間、戦力の整ったチームは、1998年に連続Bクラスを20年でストップさせて3位に上昇しました。さらに1999年は、課題だった投手陣が整備されて、工藤公康が投手2冠でMVP、中継ぎの藤井将雄が最優秀中継ぎ投手タイトル獲得し、悲願のリーグ優勝、そして日本一を達成します。チームが歓喜する中、渡辺正和は黒潮リーグ(二軍)で時を過ごしていました。

貴重な左の中継ぎとして復活し、チームのリーグ連覇に貢献

2000年、5年間未勝利だった渡辺正和は、怪我を完治させ一軍に復帰します。34歳と後がない渡辺は、リリーフとして大きく輝きました。エース工藤公康という柱を失い、先発陣が不安定な中、吉田修司、篠原貴行らとブルペンを支えます。当時39歳だった 長冨浩志と「中年の星」として注目を浴び、キャリアハイの60試合に登板しました。防御率も長冨の2.00に次ぐ2.54と安定感があり、クローザーのペドラザにつなぐ左のセットアッパーとして固定されます。シーズン前は大幅な戦力減と思われましたが、ダイエーは2年連続でリーグ制覇を成し遂げました。

同年のセ・リーグは長嶋茂雄率いる巨人が優勝し、王貞治ダイエーとのON決戦として異常な盛り上がりの日本シリーズとなります。それでも渡辺は平常心で黙々と仕事をこなしました。第1戦では2番手として1回無失点、第2戦でも2回を無失点に抑え勝利投手になります。しかし巨人が3連勝して王手をかけて迎えた第6戦、シリーズ4試合目の登板で、松井秀喜に2ランを浴びて初失点しました。チームも4連敗し、2年連続の日本一は逃してしまいました。

4年連続45試合以上登板と、チーム勝利の方程式として活躍

2001年に、防御率を5.05と大幅に悪化させましたが、48試合に登板します。翌2002年には再び調子を取り戻し、チーム2位の57試合に登板して、防御率2.66にプロ初セーブも記録しました。2003年、先発投手陣が充実し、2000年以来となる優勝を奪還します。渡辺正和も46試合に登板と、チーム最年長ながら奮闘しました。しかし、防御率は隔年で数字を落とす4.95となり、続く日本シリーズでの登板もわずか1試合に終わります。2000年から4年連続で45試合以上の登板とブルペンを支えましたが、年齢的なこともあって同年オフに戦力外通告を受けました。

引退後は指導者としてプロ選手を育成し、福岡大学監督に就任

渡辺正和は、2004年1月に現役引退を表明すると、即指導者の道を歩み始めます。同年4月に教職取得のため福岡大学に入学すると、2007年3月に修士課程を修了します。そのまま福岡大学野球部投手コーチ、およびスポーツ科学部助手に就任しました。2007年秋には、白仁田寛和投手(阪神ドラフト1位)、2010年にも榎田大樹投手(阪神ドラフト1位)など多くの選手の育成に一役買っています。2015年からは福岡大学野球部監督に就任し、自らがなしえた神宮野球大会での優勝含めて全国制覇を目指しています。

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