名前 | 若田部健一(ワカタベケンイチ) |
---|---|
生年月日 | 1969年8月5日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県鎌倉市 |
プロフィール | 戸塚小2年の時に団地野球チームに入り、大船中学ではエース。鎌倉学園に入学し、投手として1年生からベンチ入り。1987年7月全国高校野球大会の地区大会でノーヒット・ノーランを達成した。
1988年駒沢大学に進学。1990年東都大学秋のリーグ戦で17奪三振のリーグ新記録を樹立。同年北京アジア大会出場。 1991年ドラフト1位でダイエー入団、契約金1億3千万・年俸1200万は当時史上最高。1992年5月対ロッテ戦で初勝利。1999年リーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献。2002年、10勝、リーグ4位の防御率2.99を残し、FA宣言。 2003年から幼少期ファンだった横浜へ移籍。しかし、不調や怪我で戦力になれず、3年でわずか1勝に終わる。2005年オフ戦力外通告を受けて引退。2017年からソフトバンクの二軍投手コーチに就任。 通算成績は271試合、71勝75敗0S、防御率4.15、1,315回0/3、761奪三振。パ・リーグ特別表彰(優秀新人賞)。駒沢大学卒、184センチ、87キロ。右投右打 |
大学時代に投手として才能を開花させ、ドラフト最注目選手となる
若田部健一は神奈川県鎌倉市に生まれ、小学2年生から野球を始めます。当時からホエールズ友の会に入っていたほど地元・大洋のファンでした。鎌倉学園に進学すると、投手として1年生からベンチ入りします。3年夏にはエースとして、甲子園を目指しました。1回戦の二宮高校でノーヒット・ノーランと好調なスタートを切ると、準々決勝もコールド勝ちして準決勝に進出します。しかし横浜商業に3回までに6点を奪われ、完投しましたがベスト4で敗れました。
卒業後に駒澤大学へ進学すると、投手としての才能がさらに開花します。3年秋季には、東都最多となる17三振を奪い、7勝1敗、防御率0.94で最優秀投手、ベストナインに選出されました。4年にはインターコンチネンタルカップ、バルセロナ五輪予選において日本代表にも名を連ねます。同年秋季リーグでも、MVP、最優秀投手、ベストナインと賞を総なめして注目を浴び、ドラフト会議の目玉となりました。
4球団指名競合した即戦力の噂どおり、先発として10勝をマーク
即戦力と噂された若田部健一は、4球団からドラフト1位指名を受けます。在京セ・リーグを望んでいましたが、福岡ダイエーホークスが交渉権を獲得しました。当時のホークスは投手陣が弱く、毎年二桁勝利できるエースが不在であり、ルーキー若田部にその期待を寄せます。待望のエース候補に対して、当時史上最高額の契約金、そして背番号14という高待遇を与えました。
1992年、開幕2カード目初戦にプロ初登板初先発するなど、先発としてローテーションを守ります。200イニングこそ届きませんでしたが、チーム最多の27試合に先発して、10勝13敗と二桁勝利を達成しました。10勝目をあげたゲームは、野茂英雄(当時近鉄)と息詰まる投手戦となります。翌年から福岡ドームへ本拠地を移転するため、平和台球場ラストゲームという日になりましたが、1-0という見事な完封を成し遂げました。
2年目のジンクスに苦しみ、長いスランプの時期を抜け出せず
球団として待望のエース候補は、翌年も先発として多くの試合に起用されます。4月には福岡ドーム初勝利を挙げたのも若田部健一でした。しかし、当然のように研究もされて、2年目のジンクスに苦しみます。防御率も前年よりも1点以上悪化させ、5勝10敗と大きく負け越しました。
3年目に復活の10勝をマークして、再びエースへの階段を登るものと思われました。しかしエース候補としての地位を抜け出すことができず、長いスランプの時期を迎えます。翌年は9試合しか出場できず1勝6敗に終わると、プロ5年目は工藤公康、武田一浩ら先発投手陣の厚い壁に遮られて中継ぎへ降格しました。不安定な成績が続いたため、先発にも中継ぎにも定着できないシーズンが続くと、1998年にはわずか7試合の出場で自身初のシーズン0勝で終わります。いつしかエース候補という肩書きはなくなっていました。
先発として完全復活し、チームの初の日本一、リーグ連覇に貢献
福岡ダイエーホークスは、秋山幸二、石毛宏典、工藤公康ら西武で黄金時代を経験したメンバーを加入させ、ドラフトでも小久保裕樹、松中信彦、井口資仁らをドラフトで獲得して戦力を補強します。1997から順位を上げて、1998年には南海時代から続いていた連続Bクラスを20年でとめる3位に躍進していました。
本気で優勝を狙う1999年、若田部健一は開幕ローテーションに名を連ねて、久々に先発として躍動します。エース工藤に続く投球回を投げきり、5年ぶりの二桁勝利を達成しました。同年は、二桁勝利達成者が5人誕生し、福岡ダイエーとして初の優勝を成し遂げます。日本シリーズでは、第2戦に先発しKOされましたが、同試合以外を勝利したダイエーが見事日本一を成し遂げました。さらに翌2000年も、工藤が抜けた後の柱として、先発最多の登板で9勝し連覇に貢献します。特に西武戦に滅法強くレオキラーとして存在感を見せました。
FA宣言してファンだった横浜へ移籍するも3年でわずか1勝
プロ11年目の2002年、チームは西武に独走を許し大きく離された2位に終わります。しかし、若田部健一は先発の柱としてチーム唯一の10勝をあげ、防御率もリーグ4位の2.99とキャリアハイの成績を収めました。そしてオフにFA権を行使して、子どもの頃ファンだった横浜ベイスターズへの移籍が決まります。横浜は1998年に、38年ぶりの日本一を達成しましたが、2002年は再び最下位と低迷していました。
エース三浦大輔に続く先発の柱として期待されて、開幕第3戦の先発を任されます。その後、2試合に先発しましたが勝ち星がつかず、その後は扁桃腺を腫らすなどして、5月以降の登板はわずか1試合に終わりました。同年オフに右肘を手術し、2004年は復活をかけてシーズンに臨みます。しかし、開幕から一軍に上がれず、後半から昇格してもほとんどをリリーフで登板し1勝しかあげられませんでした。2005年は、自身初めて一軍登板無しに終わり、オフに戦力外通告を受けます。結局FAで移籍したにもかかわらず、3年間でわずか1勝と全く戦力になれませんでした。
現役引退後は、アイドルとなった長女とのコンビで話題を呼ぶ
12球団トライアウトを受験しましたが獲得球団はなく、現役引退を決意します。引退後は、解説者を務めながらも、タレント活動をスタートさせました。長女・遥がアイドルグループHTK48のメンバーとして露出が多くなり、一時は自身が解説、娘がリポーターという形でソフトバンク戦の中継を務めました。父娘コンビによる中継時、チームが8連勝するという不敗神話すら生まれます。その後、野球解説者に軸足を戻すと、2017年からは古巣・福岡ソフトバンクホークスの二軍投手コーチに就任しています。