名前 | 八木裕(ヤギヒロシ) |
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生年月日 | 1965年6月8日 |
国 | 日本 |
出身 | 岡山県玉野市 |
プロフィール | 高校までは投手だったが、三菱自動車水島の2年目から内野手に転向。その後3年間で打率.360、30本塁打を記録した。
1987年ドラフト3位で阪神に入団。3年目に16本塁打を記録してレギュラー獲得。1990年チーム最多の28本塁打を記録。1992年、3年連続20本塁打を達成。1994年から出場機会が減り始め、1996年は怪我で1年間一軍出場無しに終わる。 1997年からは、代打専門となるが勝負強さで代打の神様として存在感を示す。2003年、時には4番印座るなど、17年目にして初めて優勝を経験。2004年を最後に現役引退。2009年から阪神二軍打撃コーチに就任(~2015年)。 通算成績は1,368試合、3,303打数817安打、126本塁打、479打点、33盗塁、打率.247。岡山東商卒、右投右打。182センチ、75キロ |
社会人時代に、阪神スカウトからポスト掛布として期待される
八木裕は、岡山県玉野市に生まれ、小学生時代から野球を始めます。東児中学から岡山東商業高校へ進学するとチームの中心的存在となりました。2年生では、投手も務めながら4番を任されます。夏の県予選では、準々決勝で川相昌弘率いる岡山南高校と対戦し、終盤の逆転で退けました。そのまま決勝に進みましたが、関西に敗れて後一歩で甲子園を逃します。3年最後のチャンスは、まさかの初戦敗退と高校時代、甲子園には縁がありませんでした。
卒業後は、三菱自動車水島で社会人野球を続け、内野手へ転向します。すると3年間で30本塁打を放つという長距離打者としての素質を開花させます。打率も.360と好成績を残し、阪神タイガースがドラフト指名を決めました。しかし、三菱としても都市対抗出場に向けて、八木は貴重な戦力として難色を示します。それに対して、阪神はポスト掛布として期待していることを説き続け、何とか承諾を得ました。
入団3年目にレギュラーを獲得すると、長距離打者として活躍
1986年ドラフト3位で阪神から指名されて入団します。1年目から多くの試合に出場しましたが、プロ初安打も圧巻でした。5月の巨人戦で代打としてプロ2打席目を迎えます。マウンドには完封目前のエース江川卓があがっていました。そしてカーブを思い切り引っ張ると、レフトスタンドに消えるホームラン。プロ初安打が本塁打という最高のデビューを飾りました。
期待の若手を大きく育てるため、2年目はアメリカ1A・フレズノ・サンズへ野球留学します。そしてプロ3年目の1989年、開幕スタメンこそ逃しましたが、5月中旬以降、平田勝男に代わって遊撃手としての出場を増やしていきます。主に下位打線を任され、打率は.214と低いながらもフィルダー、岡田彰布に次ぐチーム3位の16本塁打を放ち存在感を示しました。
幻のサヨナラホームランに終わるも、阪神久々の優勝争いを牽引
1990年は、三塁手として定着し、初めて規定打席に到達しました。124試合に出場して、チームトップの28本塁打と、球団の期待通り、掛布2世として大きく頭角を現します。同年終盤には、打順も5番や3番など中軸を任されるようになります。1991年も、2年連続でチームトップの22本塁打と待望の長距離打者として成績を残しました。
阪神タイガースは、1985年に21年ぶりのリーグ優勝を成し遂げましたが、翌年3位に落ちると、1987年からは5年間で4度の最下位という泥沼の時期を過ごします。しかし、1992年、突如復活して快進撃を見せました。亀山努、新庄剛志のニュースターが誕生し、八木裕も外野手に転向して3人で外野陣を務めます。打撃でも、オマリー、パチョレックに続く打者として、3年連続20本塁打を達成する21本塁打、67打点と活躍しました。終盤までヤクルトと激しい優勝争いを演じ、9月の直接対決では幻のサヨナラホームランを放ちます。劇的なサヨナラで首位奪還と思いきや、審判の判定は覆り2ベースとなりました。結局、同試合を勝ちきれず引き分けに終わると、2ゲーム差で優勝を逃します。それでも突如の快進撃に、八木の豪打は必要不可欠でした。
若手の台頭で出場機会を減らすも、代打の神様として君臨
1993年、103試合の出場も9本塁打と前年から大きく成績を落とすと、翌年から若手の台頭もあって、出場機会を減らしていきます。1994年から2年連続で71試合と約半数の出場程度に終わり、守備位置も内野手と外野手と固定されないシーズンが続きました。1996年、左膝を痛めると、立て続けに右肩も負傷し、プロ入り以来初の一軍出場無しに終わります。そして故障したことで、外野手、そして三塁手などを務めることもできなくなりました。
1997年、満身創痍の八木裕は一塁手へコンバートされましたが、同ポジションには外国人を始めとした長距離バッターなどライバルが多く、必然的に代打での出場が多くなりました。しかし、一打席という制限された打席の中で驚きの集中力を発揮していきます。同年は42打数17安打17打点、打率.405、出塁率.500という驚愕の代打成績を残しました。さらに1998年も当初は、代打として5割近い数字を残し、チームの切り札的存在となります。あまりの勝負強さに、「代打の神様」としての名前をほしいままとしました。
プロ17年目にして初めての優勝を味わい、花道に翌年引退
代打稼業として7年目を迎えた2003年、チームは開幕から快進撃を見せます。前年から星野仙一が監督に就任し、かなりの血の入れ替えも敢行して18年ぶりの優勝を狙いました。八木裕は、相変わらず代打の切り札として活躍し、時には4番として先発でも出場しました。生え抜きのベテランは精神的支柱としても機能し、阪神は独走で優勝を飾ります。暗黒時代から知る男としては、プロ17年目の初優勝でした。
翌年も現役選手として活躍しましたが、この優勝を置き土産に現役引退を決意します。選手時代前半は、長距離砲として活躍し、後半は代打として大きな存在感を見せました。通算17年で、817安打、126本塁打と通算成績で見ると決して突出した成績ではありません。しかし、通算の代打成績は400打数、94安打、13本塁打、98打点、打率.235と、素晴らしく98打点は阪神歴代2位の記録でした。
引退後は古巣のコーチも務め、後進の育成でも活躍中
現役引退後は、解説者や野球評論家として活動を開始します。2009年からは、阪神の二軍打撃コーチとして古巣に復帰し、7年間歴任しました。自身が育った岡山県玉野市において、野球大会「八木杯」を開催するなど後進の育成にも乗り出しています。プロ野球経験者による学生指導に必要な研修も受講し、資格を取得しました。