名前 | 井上一樹(イノウエカズキ) |
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生年月日 | 1971年7月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 鹿児島県 |
プロフィール | 小学生時代からソフトボールを始め、鹿児島商業高校に進学。1988年には甲子園出場。
1989年ドラフト2位で中日に入団。1993年投手から野手に転向。1994年ウエスタンリーグで序盤打撃部門トップをキープ。同年ジュニアオールスターで2本塁打を打ち、全ウエスタンに勝利をもたらしMVPに輝く。同年は一軍30試合に出場。転向後、目立った活躍はなかったが、1998年チームの柱としてクリーンアップの一角を担うまでに成長。 1999年、開幕から21試合連続安打を放つなど外野手レギュラーに定着。初めて規定打席をクリアして、チーム3位の65打点でリーグ優勝に貢献。その後も準レギュラーとして、2004年、2006年のリーグ優勝、2007年の日本一などを経験。2006年からは2年間選手会長も務める。2009年現役引退。 即中日指導者に転身し、2011年は二軍監督としてファーム日本一。2012年から再び一軍打撃コーチを務めるも、2013年退任。 通算成績は1,215試合、3,134打数863安打、79本塁打、349打点、13盗塁、打率.275。鹿児島商卒、左投左打、183センチ、80キロ |
高校時代は、通算40本塁打に投手としても活躍して甲子園出場
井上一樹は、鹿児島県に生まれ、小学生の頃からソフトボールを始めます。軟式野球部に入部していた中学時代には、大相撲入りを薦められるほど恵まれた体格に成長していました。自身の親戚に多くの力士が居たことから、一度は上京して稽古場見学もしましたが、角界入りすることなく、野球の名門鹿児島商業高校に進学します。1988年、自身2年時には夏の甲子園出場を決めました。初戦の学法石川戦には9-0と快勝しましたが、2回戦では米子商に0-4で敗れます。
3年時は、投手兼任外野手として出場し、鹿児島県大会決勝へたどり着きました。先発して力投しましたが、延長14回表に失点し、打者としても6打数ノーヒットに終わり、1-3で無念の敗戦を喫します。しかし、高校通算40本塁打と投打に注目を浴びて、同年のドラフト会議を迎えました。
ドラフト2位で投手として入団も、4年間で9試合登板に終わる
1989年、ドラフト会議は野茂英雄に1位指名が集中し、他にも佐々岡真司、与田剛、古田敦也、佐々木主浩、新庄剛志、潮崎哲也、小宮山悟ら多くのプロ野球選手が誕生します。こうした豊作の年に、井上一樹は中日ドラゴンズから2位指名を受けて投手として入団しました。ドラフト1位入団の与田が、いきなり一軍でクローザーを務める中、高卒ルーキーの井上は、ファームで身体作りからスタートします。一年間は、一度も一軍昇格することなく二軍で過ごしました。
2年目の1991年、5月にプロ初登板機会が与えられるなど、8試合に登板します。しかし、イニング数を上回る四球を与えるなど制球難に苦しみました。被安打も多く、防御率は7.24という相当不本意な成績で終わります。すると翌年にはわずか1試合、さらに翌年には0試合と登板機会はほとんど与えられませんでした。
打者転向し、ジュニアオールスターMVPに輝くも一軍定着できず
1994年、投手失格の烙印を押されましたが、高校通算40本塁打の打力を買われて打者転向します。すると、ファームの試合で長打力を発揮し、ジュニアオールスターでも2本塁打で見事MVPに輝きました。こうした活躍が評価されて、7月から一軍に昇格します。30試合に出場し、本塁打こそなかったものの長打力を披露しました。
しかし、翌1995年は一軍定着することができず、わずか11試合の出場で打率も.130と低迷します。1996年からは、背番号を99に変更し心機一転を図りましたが、一軍出場はゼロに終わりました。
1999年は外野手レギュラー・恐怖の7番打者として優勝に貢献
このまま二軍に埋もれるかと思われましたが、守備力を向上させた1998年、外野手レギュラー一角を脅かす存在となります。スタメン出場も多くなり、107試合に出場して、打率.264、9本塁打、31打点と好成績を残しました。
1999年には、自身初の開幕スタメンの座を勝ち取ると、恐怖の7番打者として開幕から21試合連続安打でチームを牽引します。リーグ新記録となる開幕11連勝で、中日は前半戦を首位ターンしました。井上一樹は、その後も一時は5番打者を任されるほど好調を維持し、初めて規定打席に到達します。結局同年は130試合に出場して、打率.296、10本塁打、そして主砲ゴメス、山崎武司に続くチーム3位の65打点でリーグ優勝に大きく貢献しました。日本シリーズでも、全5戦に先発出場しましたが、ノーヒットに終わり1勝4敗で日本一を逃します。それでも、同年は自身にとって飛躍の年となりました。
スーパーサブ、そして選手会長として53年ぶりの日本一を経験
その後、規定打席に到達することはありませんでしたが、貴重な外野手としてチームに貢献します。珍しいピンク色のリストバンドを使用していたことから、ピンキーという愛称で人気も博しました。2002年から2年間、100試合出場を達成できませんでしたが、2004年は113試合に出場して、4年ぶりの二桁本塁打でチームの優勝に貢献します。そして、日本シリーズでは、3勝4敗で敗れましたが、前回出場時と打って変わって7安打1本塁打8打点と大活躍し、敢闘賞を受賞しました。
2006年から選手会長を務めると、同年から2年連続の日本シリーズ進出を実現します。完全なるレギュラーという形ではなくなっていましたが、スーパーサブとして53年ぶりのチームの日本一に貢献しました。その後、出場機会は徐々に失われ、2009年は開幕スタメンとして名を連ねましたが、ほとんどを二軍で過ごします。そしてシーズン途中の9月、同年限りでの現役引退を決意しました。
引退後は、古巣の二軍監督としてファーム選手権優勝に導く
現役生活19年を中日一筋で過ごすと、そのままチームに残り、一軍打撃コーチに就任します。2011年からは、二軍監督に就任すると、いきなりウエスタンリーグで優勝に導き、ファーム選手権でも勝利しました。2012年から2年間、ふたたび一軍打撃コーチとして腕を振るいます。しかし、2年連続でBクラスから抜け出せずコーチを退任すると、解説者生活に移りました。