名前神尾米(カミオヨネ)
生年月日1971年11月22日
日本
出身神奈川県横浜市
プロフィール小学校3年からテニスを始める。

1987年全日本ジュニア16歳以下で優勝し、注目を浴びる。1989年ブリヂストンサーキット日石松山オープン単準優勝。1990年高校卒業と同時にプロに転向、同年全日本選手権混合優勝、1991年、1993年、1995年全日本室内選手権単優勝、1992年全豪オープン単・複本戦出場、アサミカップ単優勝など。

1994年全日本テニス初優勝。右肩の腱板炎の炎症のため、1997年2月全日本室内選手権単複2冠制覇を最後に引退。1995年10月の世界ランキング24位が最高だった。

のちスポーツリポーターとしてTBS「新サンデーモーニング」などに出演。1999年バラエティ番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」に出演。東海大相模高卒

10歳からテニスを始め、東海大相模高卒業と同時にプロ転向

神尾米は、神奈川県横浜市に3人兄妹の末っ子として生まれます。3歳から水泳を始めましたが、母親が毎日のように通うテニスに興味を持ち、10歳から自身もテニスをスタートさせました。当時から、伊良子妙子コーチに就き二人三脚で腕を磨き、東海大相模高に進学する頃には大きく頭角を現します。1987年には、全日本ジュニアテニス選手権(16歳以下)で優勝し、同年度のインターハイではシングルスで3位となりました(優勝は伊達公子)。

1989年度のインターハイは7位に終わりましたが、同年のブリヂストン国際女子サーキットで準優勝し、高校卒業後の進路で悩みます。しかし、世界で自分の力を試したいと思い、ブリヂストンと契約してプロ転向しました。

実績を積み上げて、全豪オープンで世界4大ツアーデビュー

1990年、プロデビューを果たすと、同年の全日本テニス選手権ミックスダブルスを佐藤哲哉とのペアで優勝します。さらに、1991年には全日本室内テニス選手権優勝、1992年にも全日本女子ダブルスで準優勝(広瀬綾子とのペア)と国内タイトルに絡んでいきました。全日本ランキングも、1989年の20位から15位、13位と順調にあげていきます。そして、1992年には、世界4大ツアーでもある全豪オープンに初出場を果たしました。

全日本選手権シングルスを初制覇するなどレベルアップ

1993年、全日本室内テニス選手権で連覇を飾り、全米オープン初出場も果たします。そして、翌1994年には、全日本テニス選手権シングルス決勝で宮内美澄を6-3, 6-1で下し、同大会を初めて制しました。石田恵子とのペアで出場したダブルスでは、惜しくも決勝で敗れ2冠は逃します。同年は、未出場だった全仏オープン、ウィンブルドンにも初出場し、世界4大グランドスラムツアー全てを経験しました。

世界4大ツアーで自身最高位の成績を収め、日本3番手浮上

当時、日本女子テニス界は黄金時代といっても差し支えないほどの層の厚さでした。筆頭は、伊達公子であり、1994年は全豪オープン、全仏オープンでベスト4、ウィンブルドン、全米オープンでベスト8進出し世界ランキングも4位まで上昇させます。そして、1995年の全豪オープンでは、実に11人もの選手が本戦入りを果たしました。128人中の11人ということで、約1割を日本人が占めており、日本人同士の対戦も行われます。伊達に次ぐ日本2番手の沢松奈生子は、1回戦で売り出し中の杉山愛を破りました。神尾米も負けじと自身最高の3回戦まで進出します。沢松は3回戦で、5年ぶりに伊達にも勝利し、同大会で日本人最高位の準々決勝まで駒を進めました。

神尾は全仏オープンでは1回戦敗退となりましたが、ウィンブルドン、さらに全米オープンではともに自己最高の3回戦進出と安定した成績を収めます。同年はダブルスにおいても、全豪、全米で最高位の2回戦進出とプロ転向後、絶頂期を迎えました。世界ランキング24位、全日本のランキングも3位まで上昇させ、伊達、沢松に続く日本の3番手の地位で奮闘しました。

故障した右肩の症状は悪く絶頂期に無念のドクターストップ

1996年には、雉子牟田直子とペアを組んで全日本テニス選手権ダブルスに出場します。決勝では、杉山愛&永冨恵子ペアに1セット目を取られましたが、粘ってタイに戻すと、3セット目を7-5で勝ちきり、1994年シングルスとの2冠を達成しました。世界とも戦えると自信もついていた矢先、突如プロ生活を断念せざるを得ない状況となります。

神尾米は慢性的に肩を痛めていましたが、右肩腱板炎の状態は酷く、医者から再起不能という厳しい宣告を受けます。20代半ばというプロ選手として最高の状態にもかかわらず、引退を決意しなければならない状況となりました。1997年2月、全日本室内選手権にシングルス、ダブルスの両方で出場し、単複2冠を達成しそれを最後に引退します。選手生活はわずか8年で、引退時25歳という若さでした。

引退後はタレント活動をする傍ら、後進の育成にも力を入れる

神尾米が引退する直前に、第一人者の伊達公子も突然の引退をしており、日本女子の上位2人が一気に姿を消しました。その後は、所属先のブリヂストンにおいて全国を回り後進の育成に務めています。また、2011年4月からは、自身が教えを請うたイラコテニスカレッジのアドバイザリープロとしてもプロ選手やジュニア育成に励んでいます。2017年からは、日本テニス協会の強化副本部長に就任しました。

この間、タレントとしても活動しており、1999年にはバラエティ番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」の企画で、「ドーバー海峡横断部」の一員として泳ぎきりました。トライアスロンにも挑戦するなど、その体力を存分に活かします。2001年の結婚を経て、2003年には長女も出産し、子育てと仕事の両立に奮闘しています。

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