田中聡について

名前 田中聡
生年月日 1977年8月27日
日本
出身 滋賀県志賀町(現:大津市)
プロフィール 和近小から志賀中に進学。尽誠高2年でセンバツに出場。法政大学時代は4番打者として活躍。平成12年大学卒業前に渡米、独立リーグのバレー・ヴァイパーズでプレー。13年ドラフト7位で日ハムに入団。178センチ、81キロ。右投左打

幼少期からマルチな才能を発揮

田中聡が生まれ育ったのは滋賀県の志賀町。そこで小学4年生のころから野球を始めますが、関西圏のエリアの出身ですが、野球熱はさほど強くない滋賀県で生まれ育ったため、中学時代からより高いレベルでプレーをすることを望み、隣県である京都にある硬式野球チームでプレーをしていました。

しかし、滋賀から京都は遠く、野球をするだけで通うのはかなりの億劫なことになっていきました。そのため、次第に野球から気持ちが離れていき、中学時代の田中は自宅近くの中学校でできるバスケットボール部に所属していました。後のプロ野球選手としては珍しいくらいのマルチっぷりを披露しましたが、思えばメジャーリーガーたちもアマチュア時代は野球外のスポーツを複数行い、その中から絞っていくというスタイル。そう考えるとバスケットボールを経験するというのはアメリカの独立リーグでプレーしてプロ入りした田中らしい経緯とも言えるでしょう。

そして高校に進学する際、田中は将来のことを考えた結果、バスケットボールでは生活ができないと判断。そのためプロリーグが確立されている野球で生計を立てていくと考え、プロ野球選手になることを目指した田中は甲子園の名門校である尽誠学園へと進学します。

3年生になってからスラッガーとして開眼

田中聡が進学した尽誠学園は香川県の名門校。伊良部秀輝、佐伯貴弘らを擁して田中の進学する前から甲子園大会に出場していました。田中の計算によると、3年間で1.5回は甲子園大会に出場していたことが分かったため、プロ入りのための最短ルートとしてこの高校を選びました。

中学まではバスケットボールと野球の二刀流と言う形になっていた田中は技術面はともかくとして体力だけは自信があり、体調のいい時は固め打ちすることもしばしば。そのため、1年生の秋には早くもレギュラーを勝ち取り、県大会の決勝では勝ち越しタイムリーを放つ大活躍。この田中の一打がもとで翌年のセンバツ出場が決まっただけにまさに値千金の打撃と言えるでしょう。

結局のところ、田中が甲子園に出場したのは94年の春のセンバツのみでしたが、田中自身はその後も活躍して高校通算で23本塁打。しかし、高校2年生のころまではいわゆる単打を持ち味にする打者で、本塁打はわずか7本塁打まで。ところが3年時になると突然長打力が身について16本塁打を追加するという成長力を見せつけました。

そして高校を卒業した際、田中は早稲田大学と法政大学のセレクションを受けます。どちらも六大学リーグに所属する強豪チームですが、当時のプロ入り選手数はダントツで法政大学の方が多いという状況。そのデータを見た田中は早稲田を蹴って、法政大学への進学を決断しました。

大学時代に芽が出ず。独立リーグでプレーすることに

法政大学に進学した田中聡ですが、ここでは思うような活躍できずにいました。それまでレギュラーをしっかりと確保していた田中でしたが、全国から有望選手が集まる法政大学の野球部は層が厚く、荒削りだった田中ではレギュラーをつかみ取ることができずにいました。そのため田中は大学時代、主に代打屋稼業に甘んじ、結局本塁打は1本も打つことがありませんでした。

その大学時代も4年生の春のオープン戦こそ好調でしたが、いざリーグ戦に入ると一切打てず、最終的にはベンチからも外されてしまいスタンド応援をすることになるという苦汁をなめる結果になりました。

いくら高校通算23本塁打を放った選手とは言え、大学時代にほとんどと言っていいほど活躍した実績がない選手はプロからも声がかかりません。これで諦めを付けて、ノンプロチームへ進むことも考えられましたが、プロ志望の強かった田中はノンプロからの誘いを蹴り、アメリカに進むことを決断します。

とはいえ、アメリカの野球事情を何も知らなかった田中。あらゆるつてを頼って、情報を得ると、バレー・ヴァイパーズという独立リーグのチームのトライアウトが近日行われるという情報をキャッチ。これだけを頼りに渡米した田中はすぐさまトライアウトに参加します。実戦形式だったトライアウトで田中は本塁打を放つと契約が決まり、晴れて独立リーガーの一員となりました。

アメリカ独立リーグから日本のプロ野球チームへ

00年はバレー・ヴァイパーズでプレーした田中聡。アメリカの独立リーグはいかに優秀な選手をメジャーに排出するかがカギになるチームなだけに、個人プレーが得意な選手が大勢揃っていました。田中もその中で揉まれてレギュラーをつかみ取って活躍します。そしてその年の秋、田中は帰国して日本ハムファイターズのテストを受けることになりました。

この入団テストで目覚ましい動きを見せた田中はすぐに合格。そしてこの年のドラフト会議で田中は7位指名を受けて入団。幼いころからの夢であるプロ野球選手になりました。

しかし、これが田中のピークとなってしまいました。1年目の01年はファームでも80試合に出場しましたが、2年目の02年にはコーチと衝突。これが原因で出番が減ると、その年のオフにはすぐに戦力外通告。主にファーストとして起用されていましたが、その割には長打力がないなど、打力を求められるポジションだけに田中への要求が厳しくなったのは否めません。その後阪神タイガースへ移籍した田中でしたが、翌03年も目立った活躍はないまま。結局田中はこの年限りで現役を引退します。

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