名前河野博文(コウノヒロフミ)
生年月日1962年4月28日
日本
出身高知県幡多郡大月町弘見
プロフィール明徳高校時代、高知県大会決勝で敗れて甲子園出場経験無し。東都のナンバーワンとして君臨し、日米大学野球で一試合14奪三振の大会タイ記録をマーク。

1985年ドラフト1位で日本ハム入団。入団早々の5月1日の西武戦では完封で初勝利を飾った。1988年防御率2.38でリーグ1位となる。1989年8月対ロッテ戦では1安打完投で敗戦投手となる珍記録をつくった。

1990年5月アキレス腱を切断し療養、10月失跡騒ぎを起こした。1995年オフFA宣言し、巨人に移籍。同年最優秀中継ぎ投手のタイトル受賞し、逆転優勝に貢献。1999年シーズン終了後、ロッテに移籍。2000年シーズン終了後引退。

一時建築会社へ就職するも、2008年から独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチ就任。その後、農業家に転身して、げんちゃん玉ねぎを生産、販売中。

通算成績は462試合、54勝72敗15S、防御率3.93、1,249回1/3、828奪三振。最優秀防御率1回、最優秀中継ぎ投手1回。明徳高校卒、駒沢大学〔昭和60年〕卒、左投左打、172cm、85kg

駒澤大学時代、東都No.1投手として、日米野球でも大活躍

河野博文は、高知県に生まれて18歳までを地元で過ごします。明徳(現在の明徳義塾)高校に勧誘されて進学しましたが、当時は春夏含めて甲子園出場ゼロでした。そして横田真之とともに1年生から主力となります。河野は1年秋からエース兼外野手になると、2年夏には県大会準優勝するまで実力をつけました。走り込みで投手として成長し、3年最後の夏を迎えます。準々決勝、準決勝と大差で勝ち抜き、春のセンバツ全国制覇した、エース中西清起率いる高知商業との決勝戦を迎えました。しかし先発マウンドは、高知商業が弱いとされていた右のサイドスロー投手に譲り、外野手として出場します。一時は自ら勝ち越しとなる2ランを放ちましたが、同点の9回に押し出し四球で敗れました。

後一歩で甲子園出場を逃しましたが、進学した駒澤大学で鬱憤を晴らす活躍を見せます。3年時は、3試合連続完封など6勝をマークして、MVP、ベストナインで春秋連続優勝を実現しました。全日本選手権や明治神宮大会でも優勝を収め、日本代表として日米野球にも出場します。すると、14奪三振の大会記録を樹立して、最優秀投手に選出されました。

即戦力として働き、4年目には最優秀防御率タイトルに輝く

1984年ドラフト会議では、ロス五輪金メダルに貢献した広澤克実、そして竹田光訓という明治大学の投打の二人が目玉となります。日本ハムファイターズは、広澤の1位指名抽選に漏れると、河野博文をはずれ1位で指名しました。開幕第3戦でプロ初登板して2失点とホロ苦デビューでしたが、続く開幕第5戦に初先発すると、5回1失点と無難に仕事をこなします。そして、3試合目の先発機会で初勝利を初完封で決めるという偉業を成し遂げました。その後も、チーム2位の28試合に先発して、同じく2位の8勝(13敗)をマークします。チームは5位に終わりましたが、即戦力として働きました。

1986年、2年目のジンクスに陥り、1勝10敗と大きく負け越し、リリーフも兼務するようになります。3年目に成績を持ち直すと、4年目の1988年はフル回転しました。先発として13試合に投げながらも、トータル46試合に登板し、6勝5敗9セーブの成績をマークします。2年連続で規定投球回数もクリアすると、防御率2.38で最優秀防御率のタイトルを奪いました。チームも2年連続Aクラス3位と復調します。河野は、北京原人に似ていることから付けられた「ゲンちゃん」のニックネームで、選手、ファンから愛されました。

アキレス腱断裂を克服し、貴重な先発左腕投手を務める

1989年からは、リリーフがメインとなりながらも6勝1敗とブルペンを牽引します。しかし、1990年5月にアキレス腱断裂の大怪我を負い、残りのシーズンを棒に振りました。怪我の治療に専念させるため、一時的に任意引退選手となります。しかし、これを解雇通告と勘違いして、一時は失踪騒動にまで発展しました。

1991年、リリーフとして復帰して17試合に登板すると、1992年からはかつてのように先発、リリーフ両輪で働く貴重な左腕となります。徐々に先発登板を増やし、二桁勝利には届きませんでしたが、1994年から2年連続で規定投球回数をクリアしました。

FA移籍した巨人では、メークドラマ実現につながる大活躍

1995年オフに、FA権を行使して長嶋茂雄率いる巨人に移籍します。1994年に、10.8決戦を制してリーグ優勝、日本一を奪還しましたが、1995年は投打がかみ合わず3位に終わっていました。特に、木田優夫、阿波野秀幸、石毛博史らが不振だったリリーフ再生は急務の課題として浮上します。その一環として、経験ある河野博文の獲得につながりました。

期待の新戦力でしたが、当初は二軍暮らしとなり、チームも不調でBクラスをウロウロします。しかし、河野が一軍昇格してリリーフに専念し、途中入団のマリオがクローザーに収まると快進撃が始まりました。河野は7月の月間MVPに選出される活躍を見せると、最大11.5ゲーム差あった首位との差をつめていきます。ルーキーの仁志敏久、清水隆行、そして松井秀喜も中軸として活躍し、後にメークドラマと言われた大逆転優勝を実現しました。河野は6勝1敗3セーブ、防御率2.42の活躍で、同年スタートした初代最優秀中継ぎ投手に選ばれます。日本シリーズでは、初戦に負け投手になるなど不本意でしたが、初のリーグ優勝を味わいました。

現役引退後は、妻の病気に苦しみながら独立リーグコーチ就任

その後も巨人で貴重なリリーフとして働きましたが、1999年に自由契約となります。2000年は、千葉ロッテに移籍して、29試合に登板しましたが、同年で現役を退きました。引退後は、妻の紹介で建設会社に就職します。しかし、3年後に妻に乳がんが発覚するという不運に見舞われました。苦しい時期を乗り越えて、日常生活が送れるようになった頃、独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスでコーチのオファーを受けます。妻の後押しで、引き受けて単身群馬に移り住むと、チームを地区優勝に導くまで力を発揮しました。

無農薬玉葱を栽培する農業家に転身して、新たな人生を歩む

久々の野球に打ち込んでいた頃、妻は癌に蝕まれて、余命1ヶ月宣告を受けます。41歳の若さでこの世を去ると、資金難のチームからも解雇されて、河野博文は一時期自暴自棄に陥りました。それでも早く旅立った妻を思い、一転して農業への道を模索し始めます。有機栽培の玉葱をスタートさせましたが、そう簡単に売れず苦難の連続を経験しました。しかし、長嶋茂雄元監督からの激励もあって、懸命に販路を確立すると、現在は右肩上がりで生産するほどに成長しています。げんちゃん玉ねぎは、地元でも有名となり、オリジナル玉葱を使った居酒屋もオープンさせました。かつてのリリーフエースは立ち止まることなく、将来の引退選手の受け皿構築目指して汗を流しています。


VICTORYアスリート名鑑

VICTORYアスリート名鑑編集部のアカウントです。