名前 | 佐藤友亮(サトウトモアキ) |
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生年月日 | 1978年6月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県 |
プロフィール | 八松小4年の時に軟式野球を始める。
慶応高では投手として活躍。2年生の夏神奈川県大会決勝まで進出したが、甲子園出場ならず。慶大1年の時、野手に転向し、開花する。1998年東京六大学野球春季リーグ戦で首位打者となる。日米大学野球選手権メンバーにも選出された。 2001年ドラフト4位で西武に入団、開幕スタメン入り。3年間、準レギュラーに留まるも、2004年にレギュラー獲得。規定打席不足ながら、打率.317で12年ぶりの日本一に貢献。日本シリーズでは、チームトップの打率.394をマーク。 2005年開幕スタメンの座を勝ち取るも、4月早々に大怪我で戦線離脱。この時から外野手レギュラーを失い、チームも失速。2008年、シーズンは59試合出場に終わるも、アジアシリーズMVP。2009年、準レギュラーとして105試合に出場。 翌年から毎年出場機会を減らし、2012年限りで現役引退。そのまま球団に残り、スカウトを務めた後、2016年から一軍外野守備コーチ就任。 通算成績は732試合、1,572打数401安打、9本塁打、123打点、52盗塁、打率.255。アジアシリーズMVP1回。慶応義塾高校卒、慶応義塾大学、177センチ、79キロ。右投右打 |
学生時代、完璧に文武両道を実践してプロ野球選手となる
佐藤友亮は、鹿児島県藤沢市に生まれ、中学時代から文武両道を実践します。学業では常に学年トップクラスを維持し、野球部でも投手として活躍しました。高校受験では一日平均16時間の受験勉強を続けて、一般受験で慶応高校に合格します。入学後は野球部でエースを務めて、スポーツ推薦のない時代にも関わらず、2年夏に激戦区神奈川県で準優勝という快挙を成し遂げました。
弁護士を目指していた佐藤は、慶應義塾大学法学部へ進学します。大学時代も、勉学を疎かにすることなく励み、野球部の一員として東京六大学リーグでも活躍を見せました。投手から野手に転向すると、2年春には早くも首位打者を獲得するほど頭角を現します。4年秋には、自身が活躍して初のリーグ優勝を達成しました。早慶戦でも活躍を見せたことで、日米大学野球の代表メンバーにも選出されます。プロスカウトの目にも留まるようになると、2000年ドラフト会議で西武ライオンズから4位指名されてプロ野球選手となりました。
新人で開幕スタメンに抜擢されるも、レギュラー獲得ならず
西武ライオンズは、1995年に東尾修監督が就任以降、若手切り替えに成功して、1997年からリーグ連覇を飾ります。1999年から2年間は優勝を逃しましたが、Aクラスを死守しました。そして、2001年の開幕戦、佐藤友亮はルーキーながら開幕スタメンに抜擢されます。外野手登録ながら二塁手で出場し、プロ初打席で初安打も放って最高のデビューを飾りました。
ルーキーイヤーは、外野手としても出場するなど46試合の経験を積みます。2年目は外野手として31試合に出場しましたが、打席数は前年から大幅に減らしました。打率も1割台に終わり、チームのリーグ優勝に貢献できません。日本シリーズは、合計4打席の出場に留まり、チームも巨人に屈辱の4連敗を喫しました。しかし、3年目の2003年、課題の打撃で打率.288と結果を残すなど、85試合に出場します。混戦の外野手のレギュラー争いに参戦して翌年に大きな期待を抱かせました。
4年目にレギュラーを獲得し、日本シリーズでも大活躍
2003年オフ、3番松井稼頭央がメジャー移籍、4番カブレラが開幕前に骨折と戦力低下が叫ばれてのシーズンスタートとなります。しかし、中島裕之が松井の穴を埋め、ロッテから移籍したフェルナンデスの活躍もあって戦力ダウンを感じさせませんでした。福岡ダイエーホークスと激しく首位争う中、佐藤友亮は小関竜也から外野手レギュラーを奪い、同じく外野手の赤田将吾と1、2番コンビを形成します。規定打席には届きませんでしたが、キャリアハイの105試合に出場して、打率.317でチームの2位に大きく貢献しました。
さらに続く日本シリーズでも、全7戦に1番打者として先発出場します。第5戦でノーヒットに終わりましたが、他6戦全てで安打を放つなど、チームトップの打率.394をマークしました。同年シーズン1勝の石井貴が2勝して、西武は12年ぶりの日本一を達成します。佐藤もリードオフマンとして7得点も記録するなど、大きく貢献しました。
大怪我でレギュラーを失い、26年ぶりとなるBクラス転落
2005年、ルーキーイヤー以来の開幕スタメンの座を勝ち取ります。ところが、開幕7戦目の楽天戦、外野守備時にフェンスに激突して、左肩脱臼と左足首内踵骨骨折という重傷を負ってしまいました。翌日から戦線離脱を余儀なくされて、終盤に復帰したもののキャリアワーストの17試合出場に終わります。この間、栗山巧らが台頭し、外野手レギュラーの座を明け渡しました。2006年も新加入の福地寿樹が、レギュラーを掴んだことで争いはさらに激化し、同年から2年連続で60試合台の出場に終わります。チームも低迷が続いて、2007年シーズンでは、25年続けてきたAクラス入りが途切れる5位まで転落しました。
短期決戦の強さを見せるも、若手の台頭で出番を失い引退
2008年、埼玉西武ライオンズとして生まれ変わり、監督に元二軍監督の渡辺久信が着任します。本塁打王・中村剛也中心とした打撃重視のチームにおいて、佐藤友亮は対左投手限定ながら、渋い活躍を見せました。59試合に出場して打率.302と貢献して、チームは前年5位からの復活優勝を成し遂げます。日本シリーズでも全試合に出場して日本一を達成し、その後のアジアシリーズでは決勝戦でサヨナラタイムリーを放つなど、短期決戦での勝負強さを見せ付けました。
2009年、前年の勢いを持続させて、年間を通じて一軍に帯同します。実に5年ぶりとなる100試合出場を達成しました。しかし、2010年からは年々出場機会を減らし、ルーキー秋山翔吾の登場で外野手レギュラーは遠のきます。2012年の出場はわずか12試合に終わり、同年限りで現役生活にピリオドを打ちました。
引退セレモニーでは、球団関係者のあらゆる職種に留まることなく、サポートメーカーも口にする異例の長いスピーチでファンを沸かせます。そして引退後も、西武球団の編成部育成アマチュア担当に配属されました。2016年からは、一軍外野守備コーチとして、再びライオンズブルーのユニフォームに袖を通しています。