名前 | 吉田豊彦(ヨシダトヨヒコ) |
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生年月日 | 1966年9月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 大分県東国東郡武蔵町(現在の国東市) |
プロフィール | 国東高校時代は、甲子園出場経験無し。本田技研熊本に入り、1987年夏、都市対抗に補強選手で出場。
同年南海にドラフト1位で入団。1988年4月30日対西武戦で初勝利。2年目には先発ローテーションに入り二桁勝利達成。2シーズン不本意な成績が続くも、貴重な先発左腕として1992年11勝、1994年12勝をマーク。 その後不調が続くと、1998年シーズン途中に阪神に移籍。おもにリリーフとして登板しましたが、4年連続最下位の低迷時代にもあり自身も不調から抜け出せず。2001年オフに戦力外通告。 2002年、入団テストを経て近鉄に入団。初年度からリリーフとして存在感を示し、自身初のAクラス2位を経験。2003年にはキャリアハイの60試合登板。2004年オフ、近鉄球団消滅にあたって、分配ドラフトで楽天に移籍。楽天でも貴重なリリーフとして活躍し、近鉄時代から5年連続40試合登板を達成。2007年、不調で16試合に終わると同年現役引退を表明。 引退後は楽天二軍投手コーチを経て、2012年から高知ファイティングドッグスのコーチ就任。 通算成績は619試合、81勝102敗17S、23ホールド、防御率4.38、1,596回0/3、1,075奪三振。最優秀バッテリー賞1回。国東高卒、174センチ、79キロ。左投左打 |
国東高初の甲子園出場まであと1勝に迫るも、延長で敗れる
吉田豊彦は、大分県東国東郡武蔵町(現在の国東市)に生まれます。幼い頃から野球を始め、内川聖一の父・一寛が監督を務めていた国東高校に進学しました。1年秋からチームのエースを務め、2年夏には大分県予選で快進撃起こします。野球部創部以来、初戦敗退が圧倒に多い同校を初の決勝戦まで導きました。それに至るまでの過程も、初戦から5試合連続無失点と吉田の左腕がうなります。決勝も0-1の9回裏に執念で追いつき延長戦にもつれ込みました。10回も勝ち越されたすぐ裏に追いつきます。しかし、延長11回の表に2点を失うと反撃する力は残っておらず、初の甲子園出場は泡と消えました。
最後のチャンスとなる3年最期の夏は、早々に2回戦で敗退します。卒業後は、ドラフト指名がかからず、本田技研熊本へ進みました。しかし、在籍時は都市対抗野球大会に参加できません。1987年は、初出場したニコニコドーの補強選手として出場しましたが、1回戦で自身が敗戦投手となりました。
外れ1位で南海に入団すると、2年目に先発として二桁勝利
1987年ドラフト会議では、長嶋一茂のほか、PL学園で甲子園春夏連覇を達成した立浪和義らも注目されます。南海ホークスの杉浦忠監督は、早々に立浪の1位指名を公言しました。まさに規定路線でしたが、中日ドラゴンズも突如指名し抽選となります。その抽選に敗れたため、外れ1位で吉田豊彦を指名しました。
キャンプで好投を見せると、開幕一軍に抜擢され、1988年シーズン2戦目でプロ初登板を迎えます。さらに初先発機会を与えられると、6回途中を2失点に抑えて、プロ初勝利を手にしました。同年はリリーフメインに、43試合に登板して4勝4敗3セーブ、防御率4.41とまずまずの成績を残します。プロの水に慣れた2年目には、先発ローテーション唯一の左腕として、早くも初の二桁10勝をマークしました。
貴重なダイエー先発左腕として奮闘するも、Bクラスが続く
自身が1年目から、福岡ダイエーホークスとして生まれ変わりましたが、戦力不足は変わらずリーグ低迷が続きます。かつてチームを支えた山内和宏、山内孝徳らは衰えを見せていたため、村田勝喜とともに先発ローテーション投手を守りました。
相手にも研究されて1990年から2年連続で不調が続きましたが、1992年には3完封を含むチームトップの11勝と復活します。翌年は、再び7勝14敗と大きく負け越しましたが、1994年にはキャリアハイの190イニングを投げぬき、12勝と再びチームの勝ち頭となりました。1996年は不調に陥り、半数以上をリリーフで登板します。1997年も27試合に登板しましたが、防御率6.14と不振から抜け出せず、チームもBクラスが続きました。
阪神時代は、自身もチームも不調で4年連続最下位と低迷
1998年、ダイエーは首位から離される事なく、例年に無い好調を維持します。しかし吉田豊彦は開幕から二軍で過ごし、シーズン途中に阪神タイガースへの金銭トレードとなりました。1999年から阪神監督に野村克也が就任すると、再び先発にも抜擢されるようになります。投球フォームをスリークォーター気味に変えて、復活を目指しましたが、4年連続最下位というチーム同様に低迷したままでした。
近鉄で貴重なリリーフとして復活するも、まさかの球団消滅
阪神4年間でわずか7勝に終わり、2001年オフには戦力外通告を受けます。すると、近鉄バファローズの入団テストを経て、再びパ・リーグへ復帰しました。前年、いてまえ打線で12年ぶりの優勝を飾ったチームにおいて、リリーフ一本で勝負します。当初は敗戦処理中心でしたが、安定間ある投球で徐々にセットアッパーに回るようになりました。同年は、42試合に登板して、キャリアハイの防御率2.10で自身初のAクラスを経験します。2003年は60試合、2004年は56試合登板と、チームに不可欠なリリーフとなりましたが、近鉄球団がまさかの消滅という憂き目に遭いました。
新球団楽天において中継ぎとして活躍し、プロ20年で引退
プロ野球再編により近鉄が消滅してオリックスと統合、そして新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生します。そして、選手分配ドラフトが行われて、吉田豊彦は楽天初期メンバーとなりました。選手層が明らかに薄い楽天は、開幕戦こそ勝利したものの、厳しい戦いが続きます。シーズン100敗の可能性すら浮上する中、中継ぎとしてチームトップの50試合に登板しました。翌年も貴重な左腕リリーフとして、41試合に登板して存在感を示します。2年連続で二桁ホールド、防御率3点台と苦しい投手陣の中で安定した成績を残しました。
2007年、主砲の山崎武司が本塁打と打点の2冠王、ルーキー田中将大が新人王を奪う活躍を見せるなど、球団初の最下位脱出を実現して4位に浮上します。しかし、吉田は16試合登板に終わり、近鉄時代から続けていた40試合登板が5年で途切れました。防御率も9点台と大きく落としたこともあって、同年中に現役引退を表明します。入団以来毎年必ず一軍試合で登板し、81勝を積み上げたベテランは、20年で現役生活を終えました。
引退後も楽天に残り、二軍投手コーチを2011年まで務めます。そして退団後は、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグ投手コーチで指導者を続けています。現役時代、4球団を渡り歩きましたが一度も優勝を経験しておらず、自身初優勝を目指しています。