ウェズレイについて
名前 | ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ |
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生年月日 | 1972年4月19日 |
国 | ブラジル |
出身 | バイーア州サルヴァドール |
プロフィール | 1985〜95年ブラジルのESバイーア、’95年パルメイラス、’95〜96年グアラニ、’96年クルゼイロ、’96〜97年サンパウロFC、’97年ECビトリア、’98年再びESバイーアに移籍。’99年シーズンはバイーア州の年間最多得点となる56得点を挙げ、’98年、2000年同州選手権でMVPと得点王を獲得。2000年7月Jリーグの名古屋グランパスに移籍。FW、MFの両ポジションをこなす。177センチ、79キロ。ニックネームは“ピチブー(どう猛な犬)”
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26歳から本格化した遅咲きのストライカー
日本では「ウェズレイ」と称されていましたが、本名はウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ。サッカーの本場であるブラジルで生まれたウェズレイは13歳になった85年から地元のバイーア州にあるECバイーアの下部組織に所属することに。20歳までの7年間をここで過ごしたウェズレイは93年、ようやくトップチームに昇格することでプロとしてのキャリアをスタートさせました。
しかし、サッカーの本場だけあって、ブラジルの各チームの層の厚さは日本のレベル以上。そのため、バイーアのトップチームに昇格した後も出場経験はなく、バイーアを離れてフラメンコ、グアラニ、クルゼイロとクラブを転々としますが、それでも出場機会はゼロ。ようやくウェズレイが試合に出場したのは96年、5クラブ目になるサンパウロでの8試合だけでした。
ウェズレイが本格化したのは98年。26歳になったこの年、再びバイーアに戻ってきたウェズレイですが、多くのクラブを巡ったことは彼にとってプラスに。この年にはカンピオナート・バイアーノMVP、そして得点王の二冠を達成。99年にはカンピオナート・ブラジレイロ・セリエBという2部リーグながら得点王、そして00年には再び、カンピオナート・バイアーノMVP、そして得点王の二冠を達成しました。
これだけの実績を残していながら、ブラジルではほぼ無名の存在だったウェズレイ。海外リーグのクラブから多数の声を賭けられるようになりますが、その中でも最も熱心だったのは名古屋グランパスエイト。シーズン途中の移籍でウェズレイは日本にやってきました。
名古屋グランパスエイトの主力として大活躍
ウェズレイが加入することになった名古屋グランパスエイトは当時、得点不足に悩まされていました。と言うのもこの年のグランパスはトーレスが退団しただけでなく、シーズン途中に主力選手3人を「チームの秩序を乱す」と言う理由で解雇。エースストライカーのドラガン・スコイトビッチが孤立するという状態でした。
そこにウェズレイの加入は大幅な戦力アップとなり、スコイトビッチとのコンビで得点を量産。リーグ戦の出場はわずか9試合で7得点もの得点を記録しました。翌01年にスコイトビッチは引退しますが、ウェズレイはその後もペースも変わらずに得点を量産。この年からはマルセロとの2トップを形成しました。
ウェズレイの魅力と言えば、なんといってもオフェンス時の爆発力。この年はハットトリックを2度決めただけでなく、7月のアビスパ福岡戦ではハットトリックどころか4ゴールを記録するという荒稼ぎ。ペナルティエリア外からの強烈なミドルシュート、重戦車のようなドリブルからの得点、ヘディング、フリーキックと、さまざまな得点パターンをもつパワフルなストライカーとしてグランパスの得点源になりました。
Jリーグ得点王になるも、監督との確執で退団
圧倒的な破壊力を持つウェズレイはもはやチームになくてはならない存在に。毎年のように20ゴール以上決める決定力はチームになくてはならないものでした。02年からズデンコ・ベルデニックが監督に就任しましたが、ウェズレイの起用法は変わらず、一方でマルセロが退団したところにパナディッチ、ヴァスティッチらを獲得してウェズレイとのコンビを組ませるようになります。この年もウェズレイの爆発力はすさまじく、ハットトリックを1度、4ゴールを1度決めました。しかし、肝心のチーム成績が上がらず、この頃の名古屋グランパスエイトは勝ち切れずにいました。
いくら自分がシュートを決めても勝てないことにウェズレイは次第に不満を持つようになり、さらに監督との確執も表面化。翌03年にもチーム成績は落ち込み、結果的にこの年でベルデニック監督は辞任。後任としてネルシーニョが就任します。これでプレーしやすくなったのか、ウェズレイはこの年絶好調。22得点を決めて、自身初となるJリーグ得点王に輝きました。
ウェズレイの得点数は年々凄みを増していき、とうとう04年の11月にはアルシンドが持っていた外国人の通算得点記録を更新。これは未だに破られない大記録として知られています。しかし、この年からウェズレイは起用法をめぐってネルシーニョと衝突するように。前回はクラブに守ってもらう形になりましたが、今回はむしろ逆。クラブ側の批判までしたことで旗色が悪くなりました。そのため、05年は開幕戦のみの出場で謹慎処分を受けたのをキッカケに退団。母国ブラジルへと帰ってしまいました。
広島で復帰。Jリーグ記録を打ち立てる
名古屋グランパスエイトを離れたウェズレイは古巣のバイーアに戻りましたが、やはり出場機会に恵まれずアトレチコ・ミネイロに移籍。しかし、06年以降は在籍クラブが決まっていないという状況でした。そこにアタックを賭けてきたのがサンフレッチェ広島。半年間のレンタル移籍という条件で日本へ戻ってきました。
この年、27試合で16得点を記録して、翌年もサンフレッチェとの契約を延長。ゴールを決めた際に行っていた弓矢を引くポーズは今やサンフレッチェ名物ですが、これを最初にやりだしたのはウェズレイでした。いかにチームになじんでいたかがよくわかります。
名古屋時代の実績もあるウェズレイは記録の面でも快挙を成し遂げていきます。07年には史上3人目、外国人選手としては史上初となる通算100ゴールを記録。そして148試合目の達成だったため史上最速記録にもなりました。しかし、この07年にサンフレッチェはJ2降格。そのためウェズレイは大分トリニータへ移籍しました。
ここでもウェズレイは抜群の存在感を見せて、ナビスコカップの決勝戦でも得点をマークしてクラブの優勝に貢献。この年限りでの引退を予定していましたが、周囲の声に押される形で現役生活を続行。しかし、ウェズレイの足はもう限界に達していて、翌09年は故障がちに。この年のシーズンオフにウェズレイは現役引退を決めました。
その後、母国ブラジルに戻ったウェズレイはECヴィトーリアと10年に契約しますが、これも1年で退団し、今度こそ本当の現役引退。11年からはECバイーアのコーチに就任しました。