対談(1) 日本代表に足りない“ポジショナルプレー”とは何か? 五百蔵容×結城康平

見事にロシアW杯への切符を勝ち取ったサッカー日本代表ですが、W杯本番で良い結果を残せるかはまだまだ未知数です。10月6日のニュージーランド戦後、ヴァイド・ハリルホジッチ監督は「ワールドカップを戦うレベルからは遠い」と厳しいコメント。日本にはまだまだ超えねばならない壁があり、W杯開幕までに間に合う保証もありません。来年6月まで、日本はどういう準備を重ねるべきなのか? 識者2人に対談していただきました。(語り手:五百蔵容・結城康平 編集:VICTORY編集部)

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<ざっくりまとめると>

■クリエイティブとは「ゼロから生み出す」ことではない

■先行研究から次のステージを目指すには「抽象化」が不可欠

■ヨーロッパは研究を積み上げるが、日本は積み上がっていない

■“一貫したスタイル”よりも“蓄積された文化の利用”が先では?

■戦術とは、選手を自由にするものである。

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クリエイティブとは「ゼロから生み出す」ことではない

五百蔵容(以下、五百蔵) 海外でライセンスを取るための論文と、日本のサッカー関係の現場の人の論文を観ると、一目瞭然の違いがあって。それは、現象を抽象化する部分ですね。その習熟に明らかな差がある。日本のサッカー界の現場にいる人たちは、具体的なことしか言えない。個別の事象を分析することしかできない。抽象化のレイヤーを持てないから、個別の事象にある隠された関係性に気づけない。
 
監督の戦術を考えるときに必要な知的レイヤーというのは、個別の事象の分析じゃなくて、それらの関係性をいかに見抜くかです。アッレグリの論文とかをみると、最初から個別の事象ではなく、メカニズムを抜き出せないとダメということが前提になっていて、それを解き明かすのが私の仕事である的なことを言っているんです。日本はもうそこが違う。これは教育レベルの問題です。
 
結城康平(以下、結城) シンプルに感じることとしては、ヨーロッパの監督の論文はアカデミックにできている。構成がしっかりしていて、論文の体になっている。彼らは「サッカーの話をしている」という前に「学術論文を書いている」ということなんでしょうね。
 
五百蔵 日本でいう、研究者が書く学術論文と同レベルの視点を持っているんですよね。
 
結城 あとは先行研究にあたっているかどうか。グアルディオラも0トップについて「新しい戦術だ」と言われたときに「いやいや、『マジック・マジャール』時代のハンガリーで既に採用されたことのある戦術だよ」と答えたって話がありました。彼は本当にサッカーの戦術史を良く学んでいるなと思いましたね。
 
五百蔵 それらを個別の現象としてくっつけるのではなく、それに隠されている抽象レイヤーで理解できているんですよね。そうすると、抽象の組み換えや読み替えができる。多分それが、彼らが言っている「アイデア」のことだと思うんです。
 
結城 そういう話で言うと、風間八宏監督の話を聞いていて思うのが、「先行研究に触れていないのがもったいないな」ということ。バルセロナ的、トッテナム的な要素の集合体として自分の理論を作り上げているんだけど、あくまで斬新なアイデアにとどまっていて、発展させるとか理論を研究として活かすということが恐らくできないんだろうなと。
 
五百蔵 発展性がぼやっとしているんですよね。その辺がちゃんとできていると、今やっていることが「ああ、そういうことならこうも進化しうる」と、当人以外にも想像できる。それで多くの人の手が入ることで戦術やシーンが活性化し、発展していく。そういう発展性がぼやけているのは、サッカー界だけじゃなくて。例えばゲーム業界だと90年代って日本のゲームの黄金時代で、世界のゲームってそのときに日本人が考えたことをベースにして今でも動いていると言っていいんですけど、肝心の日本ではそういう蓄積が世代的に完全に分断されているんです。
 
だから、あとから今の世代の子たちが文献も何も残っていないところで学ばなきゃいけない。要するに、抽象化レイヤーを併せ持って、応用可能なものとして継承されていないから、個別の事象としてリファレンスするしかない。で、何が起こるかというと、パクリをやるんですよ。「昔やっていたあのタイトルの、あのシステムが面白いからそのままやろう」となる。で、それをやるとうまくいかないか、いっても発展性がない。
 
結城 クリエイティブとは何かというところですよね。グアルディオラが0トップを使ったのも、かつてハンガリー代表が使っていたのを知っていたから。何もないところから生み出したわけじゃない。海外と日本とでクリエイティブの概念がずれるのは、「様々な先行研究を抑えた上での状況に合わせた選択」と捉えているか、「何もないところから生み出す」と捉えているかの違いだと思います。僕は、何もないところから生み出すっていうのは「錯覚」だと思いますけどね。

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戦術を知るからこそ、クリエイティブな選択ができる

五百蔵 グアルディオラは恐らく、ハンガリーの0トップ(3トップ)システムが機能した理由と、現在のサッカーにおける戦術的な類似性に気づいたんだと思います。ゾーンをセットするけど特定の条件下では追ってこなかったり、相手が動いてくれるという状況が「何十年前かのサッカーの戦術的な状況に類似している」と。プレースピードや実際に使えるスペースは狭くなっているけど、抽象的な現象としては似通っている。
 
ならば、その狭くなったスペースと失われた時間の差分を吸収できる技術を持った選手がいるとすれば、それは再現可能だと。そういう思考プロセスを経ないと、あの0トップの構想自体が生まれてこないと思うんです。
 
結城 そこの勘違いは、選手にもあると思いますね。戦術を教えないから選手はクリエイティブになるとか、全くそういう話じゃない。なんというか、戦術って言葉がサッカー文化的なところで浸透していないというか。指導者の教え方が「戦術=パターン」みたいな形で教えちゃったりしている部分もあるのかもしれませんが、戦術に対するある種の拒否反応と、ヨーロッパと日本におけるクリエイティブの感覚の違いにはすごく類似性を感じます。結局は、戦術を知っているからこそクリエイティブな選択肢が生み出される。
 
五百蔵 ヨーロッパと日本のビデオゲームにおける「戦術」の考え方って、似ているようで違うんですね。日本のゲームの考え方がある意味革新的だったのって、まさに欧米におけるゲームの考え方と異なる角度から生まれたから。それがインタラクティブでリアルタイムで動く世界とマッチしたんです。でも、マッチしたからといってそのまま続けていくものかというとそうじゃなくて。
 
ウォー・ゲームの話にも結びつくんですが、要するに欧米のゲームって基本的に対人でやるものです。で、何をトレーニングしようとしているかというと、要するに戦争に勝つこと。常に領土を接していて、常に戦争の危機がある世界の中で、相手には相手の、こちらにはこちらの事情があるけども、戦場では同じ条件下で戦う。地形の制約、スペース、時間を交換し合う本質がある中で、相手の事情や思考プロセスを読みながらいかに勝ち抜いていくか。

勝ち抜いていく準備をするためには、ゲームという形で習熟していないといけない。欧州のボードゲームは、基本的にそういう発想なんですね。一定の条件下で、相手と戦術的な駆け引きをする。それをいかに子どもの頃から習熟するかという発想。

結城 文化レベルで、大きな違いがあるんですね。

五百蔵 そう。でも、日本はそういう発想が無いとは言わないけれど少ないんですよ。例えばあの素晴らしい『マリオ』シリーズにしたってそう。ここで言うような戦術的要素は薄い。そもそもゲームというのはどういうところから発生したものなのかということ、自分たちが経験的に持っている手札をそこから再解釈しなければ次の段階、よりハイレベルな領域にいけない。実はこれってちょうど僕らのゲーム開発している世代が果たせなかったことで。

ちょうど僕らの世代に、僕らが作っているタイプのゲームや技術がアウトオブデートになる未来が見えたんですね。で、僕らの世代がディレクタークラスになるころ、サルの芋洗いみたいに一斉に過去のボードゲームをあさり始める、ということが起きて。

――現場レベルでは、五百蔵さんたちの技術が時代遅れになることに気づいていたと。

五百蔵 そうなんです。だから、そこに戻って抽象レイヤーを獲得して次に行かないと勝てない、ということを一斉にやり始めた時期があって。でも、残念ながらこれは経営者レベルでは全く理解されず、そういう流れは全部断ち切られてしまった。時を同じくして、スマホや携帯ゲームがどんどん出てくることで、日本のゲーム文化が培ってきたものを一旦ひっくり返した世界に移行してしまった。

そのことによって、僕らがやろうとしたことも全部消えてしまったということを経験しているんです。だから、日本のサッカーの戦術的状況ってのがすごく実感をもって理解できるんですよ。

結城 この話は、現場の方々が危機感を感じている気はしますね。指導者の方々から話を聞く限り。

五百蔵 重要なのは、日本のゲーム業界におけるある世代の失敗をサッカー界が繰り返さないためには、上位構造がきちんとそのことをすくい上げなくてはいけない。でないと、同じことが起こります。下の方ではすごい情報化が進んでいて、進んだ発想を持っている指導者も出てきているのに、それを組織化できないと(サッカー界もゲーム業界と)同じことが起こると思います。

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積み上げるヨーロッパ、積み上がらない日本

結城 そうですね。戦術への拒否反応やメディアで取り上げられる内容を見ていると、非常にネガティブな方向にむかっている気はします。だからこそ、欧州のフットボールを学ぶことは重要なのかなと。ガラパゴス化を打破しないとならない。

五百蔵 僕らの世代における「クラシックゲームの歴史をもう一度見直してみよう」という動きを上の世代がすくい上げられなかった理由は、日本サッカー界における、上位構造・メディア草の根問わずの戦術アレルギーにも似ていて。要するに、いま売れているものとの関係性、連続性が理解できないから、「なんでそんなクラシックな、売れないボードゲームのことなんか考えなきゃいけないのか」ということ。自分たちは古来のゲーム性みたいなものに縛られないでやってきたじゃないか、これでいいじゃないかという発想。まんま、日本サッカー界に重なります。

結城 業界問わず、日本っぽいですね。ヨーロッパが積み上げている間に、何か違うことをやる。だから積み上げられない。いろいろなことが突発的に起きている間に、気がついたら向こうがすごく積み上げて高みに登っている。

五百蔵 だから、日本サッカーの日本化というコンセプトはすごく結構なことだしぼくもそれ自体にはあんまり異議はないんですけど、あくまで歴史・経緯を踏まえた強固なベースの上に積み重ねたものでないと。それならすごくチカラを発揮する。でも、それがなければただの勝手な気持ちサッカーになる。

結城 そもそも日本サッカーの日本化というのは、思っているほど素晴らしいものでもないと思うんですよね。必死で育成年代から一貫したスタイルを浸透させようとしているメキシコが、越えられない壁に跳ね返され続けているように。その道は、茨の道です。

ワールドカップでも、ベスト8やベスト4になると上がってくるメンツはある程度決まっているわけじゃないですか。彼らが数十年を費やして積み上げてきた文化というものがあるので、それを無視して、階段を数段飛ばしで行こうと思っても無理だと思うんですよね。それこそ、ドイツがどれほど苦労して今の位置に戻ってきたと思っているのか、という話をしないといけない。

五百蔵 一応10年ぐらいで戻ってきた、という話になっているけど、それはあくまで「ちゃんと仕立て直そう」と皆が同じ方向をむいてそれから10年。実際には、20年くらいかかっていると思う。で、日本はおそらくもっとかかる。戻る場所がないですから。そして、そういう状況にあることすら認識されていない。

結城 戻る場所もないですし、行くべき場所もないんですよ。何もないっちゃ、何もない。その状態で日本らしいサッカーは何かと説明するのはたぶん誰にもできないと思います。「こうあるべき」という願望を話すだけで終わってしまう。心地良い「日本らしいサッカー」という言葉を追いかけているだけで、実際は非常に曖昧というか。

五百蔵 基礎レベルのことにすべて習熟したうえで、相手に勝つためには違いを作らなきゃいけない。そのときに、日本人の身体的特性にフォーカスしたアレンジをするのはあり得ると思うんですけど。

結城 自分たちのサッカーというのはアレンジであって、何かクリエイティブなものを作り出そうとしている感じがします。でも、アレンジするためには何かを学ばなきゃいけません。そこにまだ到達していないのに、「日本人監督が代表チームを指導するべき」と言ってもうまくいかないと思います。何か基礎があって、そこが完成したところからアレンジしていくのが正しいアプローチであって。それこそ、積み上げている相手に一夜漬けで挑むようなものですから。

もちろんサッカーは不確定要素が多いスポーツですから、(アップセットが)起こることもある。トーナメントで、強豪国と当たっても勝利する可能性はある。でも、それでワールドカップベスト8に行けるかというと、たぶん行けないですよね。

五百蔵 ここにもゲーム文化を軽視した影響が出ていて、要するに戦争のやり方をしていないんですよね。戦争の戦術史や戦略史もそうで、戦争ってナポレオンぐらいの時期までは「不確定要素を天才的な感覚、ひらめきで支配しうる人たちのもの」だという認識がヨーロッパでもあったんです。もちろん極めて論理的なアプローチによる軍制改革が大成功を収めたり、やはり論理的な戦術の更新はそれまでもあったのですが。

でもナポレオンには両面があって、一つはナポレオンだからこそできるひらめき、もう一つはきちんとしたセオリーがあったと。彼は兵学校の頃から古典的な戦術の勉強をすごくしていて、狭いフィールドで行なわれた戦術的な機動を、彼の時代の技術的な条件下、戦略的な条件下では広い領域で再現し、その発想を得ていない古いタイプの軍隊を圧倒することが可能だと気づいたんですね。それがすごく大きい。これはグアルディオラの0トップと同じ。

で、ナポレオンが負かされたあとや、痛めつけられている最中に、周囲の人たちがそのことに気づいたんです。ひらめきじゃなく、ちゃんとしたセオリーがあって、セオリーを裏付ける歴史を利用している。当時のフランスが置かれていた戦略的優位性をその上で活用していた。そうなると、「これは分析可能、教育可能なことではないか」と。

結城 ヨーロッパではアカデミックな分野でもセオリーをまず明確にしますし、言葉の定義もしっかりやります。それは、文化的に染み付いていることなんでしょうね。戦術用語にしても、日本と違って明確に使うじゃないですか。

例えば日本でバイタルエリアといったら、妙にいろんな理解をされていますけど、向こうでゾーン16といったらココに区切ったこのゾーンという言い方を明確にする。その明確さは、意志共有をするうえでとても重要で。「バイタルエリアに走り込め」といったときに、ふわっとした認識の差があれば「どこだよ」となる。ラインが高いときはそのスペースが消されているけどどうする? とかそういうのもわからない。

戦術は、考えをラクにしてくれるものである

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五百蔵 日本にも優れたプレーメーカーが数多くいました。今でも現役でプレーしている選手もいます。そういう選手が何を得意としていたかというと、ハーフスペースに陣取ること。たぶんそれは彼らの個人的な経験の中で、「ここにいれば相手にとって一番イヤなポイント」「3つぐらい選択肢を持てる」ということがわかっているからだと思います。それを実践するし、周囲を動かせるんだけど、問題はそれを言語化できてないんですよね。
 
結城 すごくモダンな選手もいましたけど、それを共有できないんだろうなと。経験値から来るモダンさというか、知識とはちょっと違うというか。経験の中で工夫して作り上げてきたもので、周囲にうまく言語化して伝えることは難しいんですよね。
 
五百蔵 誰にでも利用できるようにする、要するに戦術化することが難しい。ハーフスペースやトレーラーとか、いろいろな表現をされていたものが実は戦術化可能だという流れになったときに、僕思ったことがあって。日本のパスサッカーでも、そこはもちろん使われていたんです。長い間使われていた。でも、個人の才覚で止まっているところがあって、それゆえに「そこは自陣から連続したエリアである」「だから個人の才覚ではなくチームとして組織的に活用可能な場所である」という発想がない。
 
結城 選手はピッチ上で本当にいろいろなことを考えなきゃいけないんですが、その中に「ハーフスペース」の概念があるとポジショニングの際とかすごく認識が楽になると思うんですよね。ある意味、考えなくて良くなると思うんですよ、そこにレーンがあるんだから入ればいいと。入れば、相手のゾーンの間に基本的には位置取りできる。「こんな小さなことで、こんなに変わるんだ」と思うんですよね。一流の選手が感覚的に理解していることを、一般的な選手でも論理的に把握することが出来る。
 
五百蔵 ハーフスペースの概念とか、エリアを分ける概念が重要視されているのって、プレー全体を再現可能なものとしてデザインできるようになるから。ビルドアップと最終局面でどういう選択的優位を得るかってことが、様々な要素が結び付いた状態で事前にデザインできる。

結城 ある特定の選手がハーフスペースに立てたとして、他の人間がそれを意識してポジショニングを取れなかったら効果は半減するわけですよね。

五百蔵 半減する。そして、彼らはそれを見て「連携が取れてない」とか「センスがない」「もっと選手同士で話し合おう」という言い方をするんだけど、そうじゃない。ビルドアップの開始時点で、そういうことはデザインできる。

結城 みんなが画を共有しなきゃいけない。だから遠藤や内田のように画を共有する人間だけでやっちゃって、それ以外の選手がハマってこない。でも本来は、考えるまでもなくデザインされた動きと、デザインされた動きの中で得た選択肢の中に工夫をしていく動きであるべきで。
 
そういう意味では、戦術はむしろ考えるのを楽にするものなんです。なんでもかんでも考えなきゃいけないところを助けてくれて、一番大事な局面でリソースを使えるようになる。将棋でも、定跡を知らずにやっても勝てないのと一緒。「定跡って全然クリエイティブじゃない」って言う人はいないですよね。定跡の先にあるとこでクリエイティブなことをやればいいだけの話であって。
 
遠藤や名波とかは特出した才能なので、人に考えることを助けてもらわなくていいかもしれない。けど、普通の一般的な選手は考える部分を助けてもらえれば、本当に大事なところにリソースを注げるんです。
 
五百蔵 日本の映画もゲームでもそうだったんですけど、自分が獲得したノウハウを、みんなが使えるようにしないんですよね。

結城 あれですね、シェフ秘伝のレシピ。

五百蔵 そうそう。自分が競争に勝つためのものとして、自分の中に囲い込んじゃうんですよ。

結城 ヨーロッパって、ノウハウをすごくプレゼンテーションとして出しますもんね。例えばベルギーの育成理論は、ベルギーサッカー協会のホームページで読めます。本当は絶対隠しておきたいはずの、いい選手をいっぱい生み出したメソッド。なのに、英語に訳して全部公開している。もうそこの感覚が全然違うなと思います。

<対談者プロフィール>
■五百蔵容 
いほろい・ただし。株式会社セガにてゲームプランナー、シナリオライター、ディレクターを経て独立。現在、企画・シナリオ会社(有)スタジオモナド代表取締役社長。ゲームシステム・ストーリーの構造分析の経験から様々な対象を考察、分析。web媒体を中心に寄稿・発言しています。 

■結城康平 
ゆうき・こうへい。宮崎県生まれ、静岡県育ち。スコットランドで大学院を卒業後、各媒体に記事を寄稿する20代男子。違った角度から切り取り、 異なった分野を繋ぐことで、新たな視点を生み出したい。月刊フットボリスタで「Tactical Frontier」が連載中。

対談1) 日本代表に足りない“ポジショナルプレー”とは何か? 五百蔵容×結城康平対談

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VictorySportsNews編集部