©荒川祐史

桐生や山縣の走り方は完成されているのか?

藤原邦康(以下、藤原)「杉本さんにぜひお聞きしたいのは、足が速くなるメソッドは、中殿筋を生かした走り方をしている桐生選手らの技術の延長線につながるかということです」

杉本龍勇(以下、杉本)「そう思います。中殿筋を動かすとなると股関節の可動域が広がるので、そこは当然できていないとあんなに速く走れないですからね」

藤原「そういう観点でいうと、彼らは完成されつつあるんですか?」

杉本「彼らの技術ですか? んん……。股関節周りの可動域が広いというのは大前提なんですが、その後ちゃんと股関節を動かしているかどうかというのが難しいところなんですよ。もしかしたら膝を主導で動かしていて、その副次的な作用として股関節の可動域が大きく広がっている可能性もあるわけで、どこから動き出したかということが大事になります。桐生選手はこれまで、どちらかというと膝を使って動かしている印象が強かったんですが、9秒98を出したレースでは痛めていたハムストリングを気にしていたために、股関節から動かしやすくなっていたのかもしれないですね」

藤原「科学的な分析や解析というのは、日本でも進んできているんですか?」

杉本「進んできてはいますよ。フィードバックもしてもらえますし、大きな試合には日本陸連や体育大学の研究者が張り付いていることが多くなりましたので、科学的な分析がしやすい状況にはなっていると思います」

©荒川祐史

体幹トレーニングを無駄にしないためには…

杉本「走るということを突き詰めていくと、手足の動きにクローズアップしていくことになります。手足をちゃんと動かすためには、体幹回りがしっかり止まらないといけません。(ウサイン・)ボルトさんがコアを鍛えることが大事だと言っていましたが、そこが手足をちゃんと動かすための土台だからだという意味です。日本では今、体幹トレーニングが流行っていますが、姿勢の悪い人が体幹トレーニングをやっても無駄になりますよ。ちゃんと体幹トレーニングをやった後、あるいは体幹トレーニングと同時に、正しい姿勢をつくったり、姿勢を保持することや、自分の身体に対する空間認知を鍛えなくてはいけないと思いますね」

藤原「背中周りも非常に大事だとおっしゃっていましたね」

杉本「そうですね。腹筋は大事だと思うんですが、背筋がしっかり鍛えられていないと良い姿勢を取れません。外国人は背筋がもともと強いので腹筋の話をよくするんですが、日本人は背筋、体の裏側が弱いという事実があるので、そこに着眼点持っていかないといけません。ただ腹筋をやるだけだと、背中が丸くなってしまいますよ」

藤原「あとは、前弯・後弯といわれるS字カーブのバネですよね、力というのは。日本人はこれらの角度が浅いので、負担がモロに背骨にかかってしまいます。それに負けない力を作るためにトレーニングをするということですよね」

杉本「そういうことです。すごく重要ですね」

藤原「トレーニングすればするほどいいのかというと、トレーニングは故障につながるリスクもありますよね。そこの見極めといいますか、短距離の場合、成長曲線とかピーク年齢というのは何歳くらいなんですか?」

杉本「今はトレーニング科学が発達していて、故障の予防や故障した後のケアも非常に進んでいますし、より効果の上がる練習も増えてきているので、ピーク年齢は上がってきていると思うんですよ。昔は30歳を過ぎたら引退という感じでしたけど、今はプロ野球を見ても、サッカーを見ても、30歳を過ぎてもまだまだ現役を続けていますよね。ボルトさんは30歳で引退しましたが、30歳を過ぎてもやっている選手は多くいます」

藤原「ボルトさんはサッカー選手になると言っていますが、果たしてうまくいくのかどうか…。野球に転向したマイケル・ジョーダンさんのような結果になるのか、ボー・ジャクソンさんのようにマルチアスリートとして成功を収めるるのか…」

杉本「そういった意味では、30歳がスポーツをやめる年齢ではなくなってきているといえるでしょう。科学的なトレーニングや検証の恩恵だと思います。身体的にフレッシュな状態で勝負が決まっていた時代から、より技術的な部分、技術や体の動かし方の精度がものすごく問われるまでにレベルが上がってきていると思います。そうなると、反復回数や経験則を増やしていくためには、年齢を重ねていくことも非常に重要なファクターになるので、選手寿命が伸びてきていて、ピーク年齢もどんどん高くなってきていると思うんですよ。そう考えていくと、幼少期や青少年期にやるべきことは何なのかという話になってきますよね。心肺や血液の代謝といったところに負荷をかけてトレーニングするというよりも、まずは体の動かし方に対する成熟度を早いうちから高めていくことの方が、技術的な成熟度がどんどん上がっていくことになります。あるいは今後、さらなる革新的な進化にフォーカスしていくことと、年齢に合わせてトレーニングのインテンシティーをうまくコントロールしていけばいいのかなと思います」

藤原「神経回路、シナプスをどんどん太くしていくような作用ですね。繰り返し反復していくことによって、できなかった動作が当たり前にできるようになる。アメリカでは幼少期からフットボールや野球などいろいろなスポーツをやったり、シーズンごとにやるスポーツが違ったりといった多面性のようなものが、日本とは違いますよね」

杉本「例えば野球をやっている子どもが野球だけやっていてもいいと思うんですよ。ではなぜ他のスポーツもしたほうがいいという話になるかというと、いつもやっている野球とは違ういろんな動きを強制的にせざるを得ないということですよね。そう考えると、体の動かし方のバリエーションが増えていくことにつながるわけです。野球をやっている子が、野球のトレーニングの中で従来よりも動きのバリエーションを増やしていけるならば、野球だけやっていてもいいと思うんですよ。要はどれだけ動きのバリエーションを豊富にできるのか、かつ、その質を高めていけるのか。この2つの観点に基づいて、野球なら野球固有のトレーニングを、陸上なら陸上固有の、サッカーならサッカー固有のトレーニングをしていけばいいと思うんですよね。それがバリエーションもない形で、これが専門的だと言って同じ動きばかり反復してしまっている。年をとってから新しくバリエーションを構築するのは子どもの頃に比べてものすごく時間がかかるので、若いうちにいろんな動きのバリエーションを増やしたほうがいいのかなと」

藤原「野球でいえば、とにかく千本ノックだ、とにかく走れ、うさぎ飛びだ、みたいなことではなくて、いろんな要素取り入れればいいということですね」

杉本「走るのもただ走るのではなくて、物を持って走ったり、片手を上げて走ったり、物を跳び越えながら走ったり、動きの多様性を作り出していけばいいと思うんですよ。その環境として、たまたまアメリカではシーズンスポーツ制が功を奏している部分もあるわけですから、野球の練習だって言いながらドッチボールやったっていいと思いますし、バスケットボールの練習だって言ってバレーボールをやってもいい。そういう発想があると良いのかなと思いますね」

藤原「話を戻すと、フィジカルのピークというのも重要ですが、いかに体の使い方のバリエーションを豊富にして、反復運動によって神経回路を活性化していけるかによって、これからのスプリンターというのはまだまだ伸びる余地があるというわけですね」

杉本「そうですね。開発する余地はあると思うので、そういう意味ではまだまだ面白くなると思います」

藤原「ピーク年齢が30歳前後だとすると、桐生選手や山縣選手はその手前に東京オリンピックを迎えることになります。タイミングとしては良いと考えていいのでしょうか?」

杉本「そう思います。東京オリンピックが目標となっているという面もありますが、いい意味で時間が限られているので、トレーニングの内容や質を変えていく良いきっかけになると思うので」

藤原「ガッと集中するでしょうしね。オリンピック後にピークの年齢を迎えて結果にもつながっていくと思います」

©荒川祐史

個別指導体制を整えることが日本スポーツの課題

杉本「あと大事になってくるのが、トレーニングの環境にあると思います。なぜ岡崎(慎司)の走りが良くなったかというと、やはりマンツーマンでトレーニングできたことにあると思うんですよ。チームのトレーニングとは別に、動作の改善を個別にやれる環境は必要だと思うので。東京オリンピックのレガシーを考えたとき、物を作るということではなくて、そういった個別での指導体制をある程度確立して、かつ、それに対して適切な報酬が発生するようになるというのが一番良いと思います。資本主義である以上、特に日本人の特徴として、高いものは良いものだという発想になりますよね。ボランティアで教えているものにはあまり価値を見いだしていないんですよね。だから、指導に対してしっかりと報酬を支払い、指導者も報酬を受け取った責任をしっかりと果たす、ということだと思うんですよね。熱意や好意によって成り立ってきた今までの時代はすでに破綻しているということだと思います」

藤原「価値を感じたものにはちゃんと対価を払うという文化ですよね」

杉本「そうです。ボランティアが当たり前になると、消費者欲求自体も下がるし、サービス提供者に関してもクオリティーを問われる、審査をされる機会がなくなってしまいます。そういう意味でも、個別での指導に対してお金を払うことが当たり前のような時代になってほしいですね」

藤原「東京オリンピックは、そうしたレガシー効果につながりそうですか?」

杉本「今のままでは無理でしょうね。結局今の部活のことに関する議論も、指導する側がつらい、ブラックだという話ばかりで、これまで提供されてきた内容のクオリティーに関して問う人がいないように感じます。大前提として私が言いたいのは、いい指導者は部活にも民間にもあまりいないということです。部活の先生イコールみんないい指導者という期待を捨てるところからスタートする必要があるでしょう。その腕、もう一度“指導”というものを作っていかないといけませんし、そのプログラムも構築しなくてはいけないでしょう。その上で、“やめる権利”も併設すればいいと思うんですよ。あくまでもスポーツはやってもやらなくてもいいものですから、教えたくない人は教えなければいい。子どもたちも同じで、一度部活に入るとなかなかやめられないという感じになっていますが、やめてもいいじゃないですか。指導者も選手もお互いに“やめる権利”と“やめさせる権利”の2つの権利を有するというのが重要だと思うんですよ。指導者側の『俺はおまえを教えられない、無理だ』と言って突き放す権利、選手側の『あなたとはやりたくないよ』と言って“やめさせる権利”と“やめる権利”の両方です」

藤原「例えば野球で強豪校と呼ばれる学校では、報酬の面などそういう下地はできているんですか?」

杉本「そうですね、教諭とではなく監督という形で採用しているところはあります。それ自体は悪いことではないんですが、実力が伴っているかは見ないといけないですね」

藤原「経験値なり昔のやり方で教えている人が多いでしょうね。そこはオープンにしたほうがいいですね」

杉本「やっぱり学校は教育機関ですから、勉強するというのが前提ですよね。そのプラスアルファでやっている以上、野球だけやっておけばいいよというわけにはいかないでしょう。そういうチーム、学校、監督は教育機関ではないところ、部活動の範疇ではないところでやるべきで、部活動としてやるなら『俺は野球だけ教えるから』と言ってはいけない。モラルの問題ではなく、学校としてスポーツをやる意味がなくなってしまう。結果的に、部活動を引退した後、何も残らないという状況になってしまうことは、是正しなくてはいけない時代になってきたのかなと思いますね」

<了>

[PROFILE]
杉本龍勇(すぎもと・たつお)
法政大学経済学部教授。研究分野はスポーツ経済学、スポーツ経営学。ドイツでスポーツ指導、研究分野を学ぶ。岡崎慎司のパーソナルコーチをはじめ、吉田麻也や原口元気など現役サッカー日本代表の指導実績を持つ。

藤原邦康(ふじわら・くにやす)
カリフォルニア州立大学卒業。米国公認ドクター・オブ・カイロプラクティック。カイロプラクティック・オフィス オレア成城 院長。(社)日本整顎協会 理事。顎関節症に苦しむアゴ難民の救済活動に尽力。噛み合わせと瞬発力の観点から五輪選手などプロアスリートのコンディショニングを行なっている。格闘家や芸能人のクライアントも多数。

「地面に着いてから蹴る、では遅い」。走りのプロ・杉本龍勇が語る“桐生の9秒台"。

2017年、日本陸上男子100メートル界に長きにわたりそびえ立っていた『10秒の壁』を、ついに突破した。9月9日、桐生祥秀(東洋大4年)が9秒98、そのわずか2週間後の24日には、山縣亮太(セイコーホールディングス)が10秒00を記録。「9秒台時代」の幕開けとなった。日本陸上界に訪れたこの時代の変化を、かつて自身もバルセロナ五輪で400メートルリレーのアンカーを務め入賞を果たすなどの活躍を見せ、現在はフィジカルトレーナーとして岡崎慎司(レスター/イングランド)をはじめとするプロサッカー選手に「走り方」を伝授している杉本龍勇氏、顎関節症の治療をメインに本来体が持つ運動機能を改善させることによって、多くのアスリートのパフォーマンス向上に寄与してきた藤原邦康氏が語り尽くす。(編集:VICTORY編集部[澤山大輔、野口学] 写真:荒川祐史)

VICTORY ALL SPORTS NEWS

VictorySportsNews編集部