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“10秒の壁”は無くなった? 進化する日本陸上界

藤原邦康(以下、藤原)「桐生選手が9秒台を記録したのに続いて、山縣選手が10秒00を出しましたね。

杉本龍勇(以下、杉本)「昨シーズンの流れからいえば、コンスタントに10秒0台で走っていましたし、山縣選手が一番強かったように思います。おそらく本人の中では、自分が最初に9秒台で走りたいと思っていたでしょうし、悔しい思いをしていたのは当たり前だと思います。

藤原 それがプラスに転じたということでしょうか?。

杉本 もちろんそうですね。彼自身も世界選手権(8月開催)の100メートル代表を逃していたので、『自分のプライドに懸けても』という思いがあったのかなとは感じています。

藤原 山縣選手は個人でトレーナーをつけてやっているという独特のスタイルで、為末(大)さんと似ているところがあるのかなと。

杉本 為末さんの場合は本当に独自でやっていましたね。それに対して山縣選手の場合は、トレーナーに対していい意味で信頼を置いてやっているので、為末さんとはまた少し違うかもしれません。

藤原 確かにキャラクターというか、性格は違う感じですよね。先日、山縣選手の動画を観ましたが、非常に研究熱心で哲学的な考え方を持っている選手だと感じました。今は9秒台に迫るライバルが5人ぐらいいますが、それもいい方向に働いている感じでしょうか?

杉本 そうですね。今や日本国内での競争というよりも、世界でどう戦うかという観点や価値観、視点の方が優先順位は高いかなと思います。ただ、桐生選手が9秒台を記録したことによって、『10秒の壁は難しい』じゃなくて、『自分でもやれる』というマインドセットが出来たと思うんですよね。もともと実力が拮抗している選手たちですから、10秒がもっと身近になり、『やれる』という自信に変わってきたのかなと。そこは、日本国内での競争相手としてのライバルというよりも、自分の実力を比較・評価する対象としてのライバルといったイメージです。それが功を奏している、プラスに働いているんじゃじゃないかなと思います。

藤原 ベンチマークといいますか、基準が前に進んだ感じですね。10秒は壁ではなく、通過点だと。

杉本 心理的要因はやはり大きいですね。自分で暗示をかけて壁にしてしまう場合もあると思います。身体的、技術的な部分ももちろん重要ですが、やはり10秒に対する価値観や捉え方が変わったことで、精神的な部分で気楽になったんじゃないかなという気がしますね。

藤原 そこでブレイクスルーが起こっている感じですね。以前、サニブラウン選手も『10秒の壁を突破するのは時間の問題』と言っていました。

杉本 彼自身、肌感覚として手応えあったでしょうし、『できれば自分が最初に』という思いもあったと思います。結果的に桐生選手のほうが先に9秒台を出したわけですが、本当に誰が出してもおかしくはない状況だったかなと。来年あたりには、もう一人、二人ぐらい出てくるのではないでしょうか。今は昔と比べて、情報が回りやすい時代になりましたから。私たちの時代には、『この選手がこういうトレーニングをやっているぜ』という情報が回ってくるのは1年後になったり必ずタイムラグがありましたが、今はTwitterやInstagram、YouTubeで即座に情報がアップされる時代ですから。そういったタイムラグがなくなってきているというのは、社会背景から恩恵を受けている部分ですよね。

藤原 テクニカルな部分も、ある意味、クラウドで共有されていますね。どこからでも引き出すことができます。

杉本 私たちの時代は、カール・ルイスがどんな練習をやっているのか知りたかったら、ヒューストンまで行かなくてはいけなかったわけです。『よし、明日行こうぜ』と言ったとしても1日、2日はかかりますし、『見に来ていいよ』と許可を得られるかどうかという問題もあります。それが今は、インターネットでパッと映像があがる。『今日はこんな練習をやりました』と遊び半分の映像を見せてくれるだけでも、専門的な人間から見ればすごく大きな情報ですから。その影響はすごく大きいと思います。

藤原 山縣選手が「桐生選手のフォームを真似して走ってみた」という動画があったんですが、面白いなと思いました。やはり自分の体の使い方とは違うでしょうし、そのまま応用することは難しいでしょうが、自分で真似して体感するというのが面白いなと。

杉本 それも一つでしょうね。基本的に真似って大事なことなので、むしろ100%真似することは個性に気づくきっかけになるとも言われていますし、自分のことをあらためて自己学習する大事な機会だと思うんですよ。そういった意味で真似をするということは、スポーツにおいてもそうですし何においてもすごく重要だと思いますが、否定的な見方をされているように思います。真似するより個性が大事だと。

でも、100%真似しようとしても当然個体が違うので実際にはできないわけで、その時に初めて自分とはなんぞやと、本当の意味で自分の個性に気づく。ですので、最初は真似することから始めないといけないと思うんですよ。スポーツから話はずれますが、例えば中国がいろんな分野で海外のものをパクったりしていますが、最終的に自分たちのものにして、今や日本より高い技術力を持つ分野もたくさんありますよね。そういうことから考えても、やはりまねをするというのはすごく重要で、山縣選手が桐生選手のフォームを真似してみようという発想自体がすごく面白いと思いますね。

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桐生の次に9秒台を出すのは?

藤原 サニブラウン選手が海外でコーチをつけていますが、今はそういうスタイルが主流になっているんでしょうか?

杉本 そうですね。日本人はどうしても外国に対してコンプレックスを抱えていると思うんですよね。外国人だったらみんないいコーチだって思ったり。例えば、今、部活動の問題でもクローズアップされてきていますが、教育においてもスポーツにおいても極力マンツーマンに近い状況でトレーニングすることがすごく重要だと思うんですよ。もし今日本にいる指導者でもマンツーマンの状況で指導することが可能ならば、外国人のコーチと同等かそれ以上の人はいると思うんですよね。

ただ、部活動の発想で考えてしまうと、30人、40人という生徒に対して1人の顧問しかいないという環境を無意識のうちに正当化してきてしまっている。海外の場合は全く違うわけですよ。サニブラウン選手のコーチが優秀なのは確かですが、日本でもこれまでのステレオタイプな発想から外れてマンツーマンでトレーニングすることができれば、もしかしたら日本人の指導者でも彼を十分に育てることができる人はいると信じているんですよね。だからこそ、外国人コーチに教わればいいという発想はすごく安易だと思いますし、そういうことを訴えている人は複合的に状況を見られていない、偏った物の見方をした勉強不足な人なのではないかとも思っています。むしろそういう意味では、マンツーマンに近い状況でトレーニングできるように環境を整備できかが、日本の一番の課題だと思うんですよね。

藤原 桐生選手も、ハンマー投げの室伏広治選手からマンツーマンの個別指導で伸びているように感じます。

杉本 そうですね。桐生選手に関しても、結果的にはコーチとマンツーマンに近い形でやってきているので、指導環境を考えたとき、従来とはちょっと違うスタイルでやらせてもらえてきたのが大きいのかなと思います。

藤原 桐生選手の次に9秒台を出すのは誰になると思いますか?

杉本 山縣選手か、サニブラウン選手かなと思います。山縣選手が10秒00を出したレースはものすごく強かったですね。むしろ桐生選手が9秒98を出したレースよりも、走りの内容としては良かったなと思うので。

藤原 具体的に、テクニカルな面ではどういう部分でそう感じたのですか?

杉本 いろんな意味がありますが、例えば出力の仕方ですと、地面を蹴ったときの力を地面にきちんと伝えて、それが推進力につながっているという印象があったので、走りの内容として非常にクオリティーが高かったなと見ています。スタートからとってもいつもするっと出るところから、回転数に重きを置いているのか、動きから生まれる力に対してプライオリティを置いてるのかという違いはあって、今回は後者に重きが置かれている感じがしましたね。

藤原 ウェイトトレーニングを取り入れたそうですが、それによってプラスの面が出てきましたね。

杉本 上半身が少し大きくなりましたね。それも、彼が世界選手権の代表を逃したところからスタートしていて、その中でどうすれば自分が9秒台に近づけるかをもう一回洗い出し、それで欠けている部分がウェイトだと。筋量かもしれないし、筋出力かもしれないし、という結論に至って、ウェイトトレーニングによる強化をしてきたという一連の流れだと思います。それが今回はうまくはまったんじゃないかなという印象ですね。

藤原 サニブラウン選手についてはどうですか?

杉本 彼がすごいなと思ったのは、記録もそうなんですが、この半年で走り方がだいぶ改善されたことです。この半年でこれだけ技術に変化を加えられるというのは本当にすごい、身体能力が非常に高いなと思いました。身体能力を筋量や身長とイコールだと考えている人もいると思いますが、そうではなく、出力が上がるように、かつ、効率よく体が動くように技術を変えられるというのは、すごく大事な身体能力です。それをサニブラウン選手はやれていました。これまで腕を外に振っていたものを、縦に振れるようになってきましたし、荒削りだったものが洗練されてきているなと見ていて思いましたね。

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桐生が9秒台を記録したのは“けがの功名”?

藤原 9秒台の可能性がある選手は複数いますが、日本の短距離選手のレベルはすごく高くなっているといっていいのでしょうか?

杉本 今は世界的に見たらすごくレベルは高いと思いますよ。ただ、ジャマイカ、アメリカ、あるいはイギリスといった本当の強豪国と比べると、そこまでには至っていないのも事実です。9秒台といってもまだ9秒98ですし、実際にオリンピックで決勝に残るには9秒80台ぐらいで走る力がないといけないので、さらに10分の1秒上げないと、本当の強豪国、トップ5に入ることはできない。9秒台で走る選手がもっと増え、選手層が厚くなってくることが必須かなと思いますね。

藤原 期待が懸かるのが、桐生選手、山縣選手、サニブラウン選手、さらにケンブリッジ飛鳥選手、多田修平選手の5人になるでしょうか。

杉本 そうですね。ただ私見では、現時点で全員が9秒台を出すのは、ちょっと厳しいかなと思います。技術的な面もそうですし、いろいろと変えていく必要はあるかなと感じています。

藤原 素人目には、多田選手は線が細いように見えますが?

杉本 それもそうですが、例えば、前への推進力を生み出すというところに関して、技術的に変えていく必要はあるのかなと思います。足は非常によく動いているんですが、特に中間疾走以降、足が上下に動きすぎているので、もう少し前方に足を運ぶ。腿を上げる・膝を上げるというより、もう少し膝を前方にスイングする。そういう動きができてくると面白いのかなと思いますね。ケンブリッジ選手の場合は、足の回転軸のバランスが自分の体を中心にして前と後ろで5:5となっていますが、前方に6:4となってくると、体の前で足が動くようになって変わってくるのかなと感じています。

藤原 蹴り出しの重要性は聞いたことがありますが、うまく蹴り出すためにはつまり、前に重点を置かなくてはいけないってことですね。

杉本 そうですね。実際に地面に接地している時間はほぼ無いので、接地してから何かするのではもう遅いわけですよ。蹴り出すというのは、地面に着いてから蹴るということではなくて、どうやってうまく地面に着くか。着くまでに動作をして力を作り出して、その作り出した力をどううまく地面に伝えるか、ということです。実際に地面に着いてから蹴ろうとすると、脳からの反応に対して遅れていくので、1つの足の動作の中で本来出すべきポイントから後ろにずれていくわけです。

藤原 桐生選手がこれまで最高速度を記録するのは55メートル付近が多かったそうですが、9秒98を出したときは65メートルだった。それが良い結果につながったのではないかと。ハムストリングを痛めていて十分に練習ができていなかったということですが、まさに「怪我の功名」というか…。

杉本 大事ですよ。彼はまだ若いですし、絶好調だと力出したくなるわけです。要するに、力を100%出すということが、イコールただ出力を上げるということになりがちだと。もちろん出力を上げないといけないんですが、ただ出力を上げるのではなくて、どう効率良く出力を上げるかということが大事になるわけです。ハムストリングを痛めたことによって、本来やらなくてよかった無駄な動きがを削ぎ落とせたのではないかという気がしますね。

藤原 私のようなコンディショニングを行なう立場からは、100メートルという極限の世界で身体能力が試されるわけですから、コンディションは完璧に近い、あるいは、少なくともけがの違和感がない状態でないと記録が出ないんじゃないかと勝手に思っていました。

杉本 もちろん、怪我がないに越したことはないと思いますよ。ただ彼の場合は、怪我したことで他のことを気にしなくて済んだという心理的な部分に大きく作用し、その心理的な作用が自分の身体的な動作に対して集中せざるを得なくなった、今まで以上に出力の仕方に対してコントロールせざる得ない状況になったということが功を奏したんだと思います。

次回、杉本氏と藤原氏がさらに、日本スポーツ界に横たわる問題点について切り込んでいく。

【後編はこちら】杉本龍勇が語る、走りに必要な体幹。腹筋だけでは背中が丸くなる

2017年9月9日、桐生祥秀(東洋大4年)が9秒98を記録し、ついに「9秒台時代」に突入した日本陸上男子100メートル界。前回は、かつて自身もバルセロナ五輪で400メートルリレーのアンカーを務め入賞を果たすなどの活躍を見せ、現在はフィジカルトレーナーとして岡崎慎司(レスター/イングランド)をはじめとするプロサッカー選手に「走り方」を伝授している杉本龍勇氏、そして、カイロプラクティックの第一人者であり、顎関節症の治療をメインに本来体が持つ運動機能を改善させることによって、多くのアスリートのパフォーマンス向上に寄与してきた藤原邦康氏に、日本陸上界の進化についてお話を伺った。今回はさらに、日本スポーツ界に横たわる問題について切り込んでいく――。(編集:VICTORY編集部[澤山大輔、野口学] 写真:荒川祐史)

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[PROFILE]
杉本龍勇(すぎもと・たつお)
法政大学経済学部教授。研究分野はスポーツ経済学、スポーツ経営学。ドイツでスポーツ指導、研究分野を学ぶ。岡崎慎司のパーソナルコーチをはじめ、吉田麻也や原口元気など現役サッカー日本代表の指導実績を持つ。

藤原邦康(ふじわら・くにやす)
カリフォルニア州立大学卒業。米国公認ドクター・オブ・カイロプラクティック。カイロプラクティック・オフィス オレア成城 院長。(社)日本整顎協会 理事。顎関節症に苦しむアゴ難民の救済活動に尽力。噛み合わせと瞬発力の観点から五輪選手などプロアスリートのコンディショニングを行なっている。格闘家や芸能人のクライアントも多数。

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