“ネイマール依存症”から脱したブラジル代表。自信と誇りを取り戻した2つの指針

“信頼されない男”がつかんだ数々のタイトル

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2017年ブラジル全国選手権最終節から一夜明けた12月4日、コリンチャンスのジョーは大忙しだった。テレビ局のESPNブラジルと、ブラジルサッカー連盟が主催する、2つの年間表彰式に出席し、両方でベストイレブンと大会MVPを獲得。サッカー連盟の方では、ファン投票2位も獲得した。彼は今年の全国選手権で得点王となり、チーム優勝の原動力となったのだ。

受賞スピーチの際、感極まって声を詰まらせた。

「1日でこんなに多くの賞をもらったのは、人生でも初めて。コリンチャンスに復帰した今季、信頼されない中でスタートしたことを思うと、クラブやチームメイト、家族に感謝するばかりだよ。」

サンパウロ郊外で生まれ育ったジョーは、13歳で入団したコリンチャンスで本格的にサッカーを始め、その3年後には16歳にして、クラブ史上最年少のプロ選手となった。その早熟さの裏には、才能はもちろん、内に秘めた強い意志があった。

ジョーの父ダリオさんも、コリンチャンスでプレーする選手だったが、生活のためにタクシー運転手に転身するという経歴を持つ。サッカーの夢は息子に託され、やがて、ジョーの5歳年上の兄ジェアンが、やはりコリンチャンスと契約するに至った。

その兄が2002年、交通事故で亡くなったのだ。15歳のジョーは、嘆き悲しむ両親を前に、お手本だった兄を亡くした喪失感を、決意に変えてこう言った。

「僕に任せて。お父さんがジェアンに抱いていた夢を、僕がすべて実現する」

その直後、U−15日本ブラジル友好カップに出場すると、大会得点王の活躍で、チームの優勝に貢献した。ジョーは今でも「あの経験はすごく大事なものになった。ジーコの指揮するチームでプレーしたことはないけど、あの大会を通して、僕も彼から学べたと思っている」と、ジーコとの意外な接点を語ってくれる。

というのも、これは育成におけるU−15世代の重要性を語るジーコが、毎年リオデジャネイロにあるジーコサッカーセンターで主催している大会なのだ。ブラジル全国の強豪クラブに、日本からのJリーグ選抜や鹿島アントラーズなど4〜6チームを含む、約20チームが集う。この世代から、他の州や外国のクラブとの対戦を経験させたいというジーコの情熱のもと、その規模と参加クラブのレベル、さらに今年で第20回を迎える歴史により、このカテゴリーでは、ブラジルで最も重要な公式大会となっている。

その大会から1年と経たず、ジョーはプロに昇格した。長身で空中戦に強く、足元のテクニックにも長けた彼は、2年間で順調に成長すると、CSKAモスクワに移籍。そこで、マンチェスター・シティの興味を引くことになり、当時クラブ史上最高額での契約に繋がった。

21歳でマンチェスター・シティへ移籍

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監督の交代により、出場機会に恵まれなくなったものの、レンタルされたエバートンで活躍。当時、彼をイングランドで訪ねた際、21歳での念願のプレミアリーグにも、非常に落ち着いていた。

「ステップアップがあまりにも早いから、僕にはそれを維持できないだろうと、よく言われてきた。でも、両親と妻が支えてくれる。ここまで達成してきたことを大事にしながら、挑戦を続けたい」

ブラジル代表では、2007年にU−20ワールドカップに出場。マルセロ(レアルマドリー)、ダビド・ルイス(チェルシー)、ウイリアン(チェルシー)、アレシャンドレ・パット(天津権健)らを擁する黄金世代が、まさかの決勝トーナメント1回戦敗退に終わったものの、ジョーはアシストで貢献している。

大会中、彼のゴールが決まらないことを質問しようとすると、チームメイトが彼を盛り上げるために、周囲に集まってからかい始めた。ジョーは「真面目な話をする時は、恥ずかしいからそばに来るなよ」と、仲間達の配慮に苦笑い。照れ屋で、愛されキャラだった。

2007年にはフル代表にも初招集。2008年は北京オリンピックを戦い、2ゴールで銅メダルに貢献した。

そんな彼に異変が起こり始めたのは、2011年、ブラジルサッカーに復帰してからのこと。インテルナシオナルで、入団当初こそ順調だったものの、夜遊びが原因で遅刻するなど、問題行動を起こすようになったのだ。

ただ、その時はすぐにアトレチコミネイロに移籍、当時のチームメイトであるロナウジーニョ・ガウーショらと共に、クラブの黄金期を築き始めた。南米のクラブ最高峰を決めるリベルタドーレス杯では、2013年得点王の活躍で優勝に貢献。

代表では、2013年コンフェデレーションズカップで優勝を経験し、2014年には夢だったワールドカップにも出場した。ジョーは振り返る。

「あれは、僕の経歴でも最高潮だった。それで自分が世界の中心にでもいるような気になったんだ。家では妻への感謝を忘れてケンカばかり。父の忠告にも聞く耳を持たず、夜、出かけては記憶がなくなるほど酒を飲んだ」

練習にも遅刻するようになった彼を、当時のレヴィー・クルピ監督が起用するはずがない。気がつけば、ワールドカップ後の1年間、ゴールを決めていない日々が続き、チームメイトにも背を向けられた。

ブラジルのトップ・オブ・トップが日本へ渡る意味

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そんな彼が、キリスト教新教と出会って、酒も夜遊びも完全に絶ち、再起を誓った。2015年にUAEのアル・シャバブに行く時、国民は彼のキャリアが終わったも同然と考えたが、彼にとっては大事な復活へのステップ。当時のカイオ・ジュニオール監督の要望で移籍が実現すると、19試合で16ゴールと、その期待に応えた。

しかし、2016年には中国の江蘇蘇寧に移籍するも、契約を破棄する形でブラジルに戻る。3カ月無所属で過ごした彼に手を差し伸べたのが、古巣コリンチャンスだった。

そうやって始まった2017シーズン。それが、冒頭の言葉に繋がる。「信頼されない中でスタートした…」

実際、サポーターや報道陣は「このクラブの出身とは言え、なぜ、すでに終わった選手に情けをかけて、契約までするのか」と考えた。しかし、チームはシーズン最初の大会であるサンパウロ州選手権で優勝。ジョーも同大会のベストイレブンと、ファン投票1位を獲得する存在となっていた。30歳になった彼は、リーダーシップも発揮。チームが苦しい時こそ、精神面でも仲間を引っ張った。

この年末、全国選手権優勝を祝う歓喜の中、チームメイト達が勧めるビールにさえ手を付けなかった。授賞式会場で、妻と幼い息子の3人で記念撮影する様子からは、家族の愛情を取り戻したことも伺わせた。

そんなジョーに関し、コリンチャンスが突然の名古屋グランパス移籍を発表したものだから、スポーツニュースはその話題で持ちきりになった。

「来年のリベルタドーレス優勝を目指すために、欧州からのオファーさえ断ったと聞いていたのに」

「2018年ワールドカップはあきらめた、ということなのか」

「いや、チッチは中国にいる選手も招集しているから、日本に行っても問題ない」

そして、こういう見方も出てくる。

「現時点、ブラジルトップのコリンチャンスから、中でもトップのジョーを獲得する日本サッカーは、近年、選手の契約にはあまり投資して来なかった。ジョーをきっかけに、Jリーグがまた、ブラジル人選手にとって魅力ある市場と舞台になってくれるのでは」

欧州への夢を追い、若くしてブラジルを巣立った時とは違う。自分を見失った後、再起をかけて国を離れた時とも違う。今のジョーの名古屋行きは、彼だけでなく、両国のサッカーのさらなる関係を切り開く。そんな期待を背負っていると言っても、過言ではない。

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藤原清美

スポーツジャーナリスト。2001年からリオデジャネイロに移住し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材。特に、ブラジルサッカーの代表チームや選手の取材を活動のベースとし、世界各国を飛び回る。選手達の信頼を得た密着スタイルがモットーで、日本とブラジル両国のメディアで発表。ワールドカップ5大会取材。ブラジルのスポーツジャーナリストに贈られる「ボーラ・ジ・オウロ賞」国際部門受賞。