下部組織出身のタレントの帰還

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4年ぶりに「浦和のハート」が地元に帰ってくる。

12月7日、山田直輝が3シーズン期限付き移籍していた湘南ベルマーレから浦和レッズに復帰すると発表された。

「昔の山田直輝ではなく、成長した山田直輝を埼スタで見せることが恩返しだと思っています。勝つために帰ってきました」

浦和を通じて、出された本人のコメントには自信がにじんでいた。

かつて埼玉スタジアムで「俺たちの直輝。浦和のハート」と歌い続けた浦和サポーターは、トップチームに昇格したばかりの姿に思いを馳せているかもしれない。

外の空気を吸ってきた27歳の山田は、「昔」という言葉には敏感に反応する。

「昔の僕の姿に戻れば、それは停滞なので。僕は湘南で変わり、あの頃よりも成長している」

昔の山田直輝--。

浦和ジュニアユースからの生え抜きで、中学年代、高校年代でともに日本一を経験。下部組織の「黄金世代」と呼ばれたチームの主軸を担った。2009年にトップチームへ昇格すると、1年目のシーズン序盤から期待どおりの活躍を見せる。縦横無尽に走り回る運動量、攻撃のリズムをつくるワンタッチパス、決定機を演出するスルーパス、果敢に縦パスを入れる度胸、いずれも目を見張るものがあった。当時、日本代表を率いていた岡田武史監督にも、その才能はすぐに認められた。09年5月、キリンカップのチリ戦で日本代表デビューを飾ると、いきなり本田圭佑の代表初ゴールをアシスト。名将も18歳の堂々たるプレーに舌を巻き、代表のコーチングスタッフには「すごい才能を持っている」と漏らしていたほど。ここから一気にスターダムにのし上がっていくと思った人は多いはずだ。

しかし、その後は度重なるケガに悩まされた。ハムストリング、右足腓骨骨折、左膝の靭帯損傷、腰痛など、負傷箇所を並べると、切りがない。毎年のように離脱と復帰を繰り返していると、浦和でもいつしか出場機会が減少。15年1月には当時J1の湘南へ期限付き移籍することに--。

「自分らしいスタイルでピッチを駆け回る」

そう誓って、生まれ育った浦和を一度離れた。

当初、レンタル期間は1年間だったものの、その翌年も期限を1年延長。そして、さらにもう1年。湘南で過ごした期間は、Jリーグでは異例ともいえる3年にも及んだ。

ケガなく戦える体づくり

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湘南での再スタートは順風満帆ではなかった。移籍1年目は曺貴裁監督の厳しい練習についていくのが精いっぱい。縦に速い湘南のサッカーにも、なかなか馴染めなかった。15年は17試合に出場したが、先発出場は4試合のみ。湘南のスタイルにフィットし、持ち味を発揮できるようになったのは、16年の夏以降だった。継続して先発でピッチに立ち始めると、チーム状況は厳しくなっていた。J1残留争いに巻き込まれ、最後はJ2降格。16年末はJ2に落とした責任を背負い込んだ。ただ、曺貴裁監督のもとで自身の成長を実感したシーズンでもあった。

「チームのために走ることを覚えた。昔は自分のために走っていた。湘南は自分が成長できる場所だと思っている。たとえ、それがJ2であっても」

17年シーズンは志願して湘南に残留。主に2シャドーの一角を務め、攻撃の柱として長丁場のJ2を最初から最後まで戦い抜いた。目標だった1年でのJ1復帰を果たし、J2優勝という文句なしの結果にも貢献した。

42試合中、39試合出場(先発38試合)。

この数字が、生まれ変わった山田を如実に表わしている。プロ9年目にして、初めてケガで一度も離脱することなく、フルシーズンを戦った。

「1年間、ケガなくプレーできることは何物には代えがたい。これかからも継続していきたい」

ケガに泣き続けた男の言葉には、特別な思いがこもる。168センチの小さな体は、幾分かがっしりした。17年は平均体重が64キロから65キロに増加。体脂肪は2%減少し、9%をキープ。数値や見た目以上に、体の内側はさらに変化している。17年2月からケガを予防するために新たに2つのことに取り組んだ。

その一つが食事改善。元五輪スタッフの管理栄養士と個人契約を結び、食事のメニューを見直した。毎日、管理栄養士にコンディションを報告し、そのときの体に合ったメニューを作成してもらっていた。12年に結婚し、伴侶としてケガで苦しむ夫を見てきた妻は、栄養士の指示通りの料理をつくって並べ続けた。食事の回数も変わった。夜は2回に分けて食べ、1日3食から4食へ。アスリート用のアレルギー検査を受け、卵、乳製品が体に合わないことも分かり、これまで口にしていたものも避けた。パン粉を使う揚げ物も一切禁止。大好きだったカスタード系のスイーツも我慢し、デザートはすべてフルーツへ切り替わった。

「朝起きて、体が重いと思う日が少なくなった。体の調子はずっといい。ケガをしていないから、効果があるんだと思う」

山田直輝を待ち受ける新たな競争

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もう一つの取り組みは、個人の体に合った筋力強化。今季、就任したばかりの岸本琢也アスレティックトレーナーから指導され、体のバランスを整えるために、右太もも裏とでん部を中心に鍛え直した。チーム練習の2時間前から毎日筋肉をほぐし、刺激を入れるなど、入念な準備を怠らなかった。オフ明けの2日後、3日後に行なう筋力トレーニングもルーティンとなった。「1年間、体のことを気遣う時間が増えた」としみじみ話す。

変化したのは体だけではない。ピッチ上でのパフォーマンスにも成長の跡が見える。

湘南に来る前は「自分らしいスタイル」にこだわっていたものの、今は違う。曺貴裁監督からは「お前がチームに合わせろ」と口酸っぱく言われ続けた。本人には特に守備面の指示が響いていた。

「以前は自分でボールを奪いたくて、一発で飛び込む場面も多かった。湘南に来て、組織でボールを奪う重要性も身をもって知った」

攻撃でもそれは同じだった。浦和時代からパス能力には定評があったものの、状況判断能力がより上がっている。年齢を重ねたこともあるが、「チームを勝たせるという責任を背負っていた」。勝利から逆算し、一つひとつのプレーを選択。自分のやりたいことだけではない。評価の厳しい曺貴裁監督も、17年シーズンは「責任感が出た」と成長を認めていた。若いチームを背中で引っ張ることも監督からは求められ、時には厳しく叱咤された。消極的な判断や軽率なプレーには容赦せず、「お前がそんなことでどうするんだ。勝負の責任を負え」と怒鳴られたこともあった。ピッチ上のリーダーとして、どうあるべきかを学んだ。

2018年、満を持して浦和のレギュラー争いに挑む。

「新しい自分で、もう一度浦和でチャレンジしたい」

湘南を通じて、出したコメントからも覚悟は十分に伝わってくる。浦和のクラブ関係者は、下部組織出身の才能が戻ってくることを心待ちにしながらも定位置争いはし烈だという。

「ポジションは与えられるものではない。実力で奪うもの」ときっぱり。

浦和の堀孝史監督には黄金期のユース時代、残留争いで苦しんだ11年の終盤にも指導を受けている。いずれも4-1-4-1システムの2列目中央を任され、主軸に据えられていた。18年は柏木陽介、長澤和輝らとしのぎを削ることになるが、クラブに期待されるのは数少ない生粋の生え抜きとして、チームの中心になることだろう。

「サッカーは勝った方が強い。勝つために何をすべきかを湘南で学んだ」

心身ともにたくましくなった「浦和の新しいハート」が、ACLを制した「堀レッズ」をさらに強くする。

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杉園昌之

1977年生まれ。ベースボール・マガジン社の『週刊サッカーマガジン』『サッカークリニック』『ワールドサッカーマガジン』の編集記者として、幅広くサッカーを取材。その後、時事通信社の運動記者としてサッカー、野球、ラグビー、ボクシングなど、多くの競技を取材した。現在はフリーランス。