――G大阪のユニフォームの変遷を教えてください
umbroの商標使用権を持つ株式会社デサント様には本当に長い間、クラブを支えていただき、感謝しております。G大阪の前身、松下電器サッカー部はアシックスのユニフォームを着用していました。ガンバ大阪初代監督の釜本邦茂さんという大きな存在もあって、当時アディダスの商標権を持っていたデサントさんとのお付き合いが始まりました。
Jリーグ開幕前年に開催された1992年のJリーグヤマザキナビスコ杯などのユニフォームはアディダスでした。93年から始まったJリーグはリーグ戦がミズノと一括契約し、全チームがミズノのユニフォームを着ることになりました。当時は背番号が選手固定制でなく、先発選手が1から11番を着けることになっていましたので、試合ごとに着ける背番号が違う上に、選手の体の大きさも違う。当時のミズノさんは相当ご苦労されていたと思います。
もう一つのカップ戦のユニフォームは各クラブに任されていたので、ナビスコ杯、天皇杯はアディダス。ミズノの全クラブサプライヤーが96年で終わったので、97年から2年間の公式戦は全て、アディダスブランドでした。あの伝説的なスーパーゴールを決めたFWパトリック・エムボマ選手が在籍して、MF稲本潤一選手が最年少デビュー(当時)した頃ですね。99年からデサントが商標権を扱っていた「le coq sportif」(ルコック)を4年、そして2003年からumbroになりました。umbroで20年、同じ大阪の地元企業であるデサントさんには足かけ30年間お世話になりました。重ねて感謝申し上げます。
――今回ユニフォームサプライヤーが変更になった理由は
このコロナ禍でどのアパレルメーカーも大打撃を受けていました。ユニフォームというのは、ファン・サポーターが我々も一緒に戦うんだ!とスタジアムに着て行き、一体感や、熱狂的な統一感を生み出すウエアと考えています。ところが、着ていく試合がないという状況になってしまった。機会の損失、大きな痛手になった。9000席ぐらいあった年間指定席も払い戻し、一時期収容できる人数が間隔を空け市松模様の5000人に入場制限された。コアなファン・サポーターにユニフォームを購入いただけるのはありがたいのですが、新たに買う人が生まれにくい状況になった。コロナ禍前まではデジタルマーケティングに取り組み、観客を増やしていって、2019年にはパナスタでの1試合平均2万7708人まで増えた。ところがコロナ禍が来てしまった。外に出なかったらたくさんの服はいらないわけで。サプライヤー契約を更新しようと交渉していたタイミングで、話が止まってしまったのは事実としてあります。
――コロナ禍が大きい
アパレル業界からすれば、商品が売れる見合いからどれだけお戻しできるかというのが、いわゆる協賛スポンサー費になる。商材を出す試合が人数制限されてしまって、家から出る、新しい人が来る、ユニフォームを買うというサイクルが完全に崩れてしまった。
――ユニフォームの契約や仕様を決める時期というのは
翌年のユニフォームの仕様、素材、デザインを決めるのはだいたい開幕の10カ月前頃になります。レプリカを作るとなると海外で製作するケースがほとんど。グローバルな欧州のトップクラブであれば2年前ぐらいになると聞いています。
――交渉の決め手は
要素はいろいろあります。安定的な継続したクラブ経営を目指す上では、当然経済的な面、パートナーとしての協賛料や商品提供があります。
ガンバ大阪はトップからアカデミー部門、普及部門(小学生や幼児)まであるわけで、クラブとしては安定的な経営を考えると、好条件で複数年の長期契約を結びたい。最低でも1ターム4年(FIFAワールドカップ周期)としたら、2回なのか否か。もちろんブランドイメージもありますね。我々のクラブの理念もあるし、先方の会社理念もある。わかりやすい例えをするとガンバ大阪であれば地域貢献や青少年健全育成、CSR、SDGsに対してどう取り組んでいるかなど。
また、ウエアの機能性も求めます。吸水速乾性、いま夏場が暑すぎますから冷却機能、軽量、紫外線ブロック、伸縮性などもありますが、さらにサスティナブル素材も重要な昨今。どんどん進化していくマテリアルに対してどう向き合って、研究開発の連携を図っていくか。また、チームに重要なのはトラブルが起こったときに、どれだけ小回りが利くサポート対応をしてもらえるか。サポート面ですね。海外で作っているので対応に1カ月かかりますわ、では困るわけです。次の試合すぐありまんがなと(笑)。キットマンの流れができているかどうか。
――hummelを扱うエスエスケイ社とはいろいろな条件、要素が合致した
選手契約と同じく、デサントさんに契約期間内に優先交渉権があって、その期限が過ぎてから別の選択肢の検討に入りました。4つのメーカー候補があり、2つに絞り、最終的にhummelを扱っていて、大阪に本社があるエスエスケイさんと合意しました。デサントさんとは契約満了という形です。
hummelは2023年に創業100周年を迎えるタイミングでした。グローバル的にも進化したい、我々としても地元を大事にしたい大阪戦略というのがあった。ガンバ大阪も前年にエンブレムを変更した。hummelはバスケットボール、ハンドボール、フットサル、J2金沢、千葉や女子サッカー、INAC神戸のサプライヤーをしていたが、J1はこれまでなかった。そこでオリジナル10のひとつであるガンバ大阪の価値を評価していただいて、我々の名前が出てきたのかなと。ありがたい話でした。
――hummelはデンマーク代表のユニフォームが象徴的でファッション的にもカジュアルでオシャレ。ナイキ、アディダス、プーマなどの国際的なブランドを追う北欧の先進的なブランドというイメージがある。マルハナバチをモチーフとしたロゴも印象的
シェブロンラインと呼ばれるV字型がhummelのトレードマークでしょう。V字の数は2、4、6と偶数で決められているそうです。襟部にクラブのテーマ「BE THE HEAT、BE THE HEART」を配置し、襟裏にはスタジアムのイラストとヒュンメルの100周年のロゴが入っています。
――デザイン面ではどうですか。できあがった新ユニフォームはこれまでの伝統を継承した青と黒のストライプでした。胸の中央のワッペンも重厚感がある
メーカーが変わったことでファン・サポーターのみなさんをソワソワさせたかもしれません。いろんな憶測が出て、タテジマが今までと全く違う斜めやボーダーに変わるんちゃうかとか、そんな声もありました。クラブとしては1997年から青と黒のストライプを基調にしているので、そこは譲れない部分でした。たまに白、赤、黄色の挿し色をタテに入れた年もありますが、メーカーとの話し合いの中で、斜めにするとかボーダーという複数案も出てきた時もありますが、クラブとしてそこは受け入れられない。メインはやはりタテジマの青黒。
――デザイン選定は難航した?
グローバルなメーカーであれば、こういう形で全クラブ、このシーズンはやりたいという意向が強い場合もあると聞いています。hummelとしても最初なのでいろんなアイデアを持ってこられました。ユニフォームを売らなければいけませんからね。我々の意向を汲んでもらったというよりは、先方も伝統の継承という部分は重視されていて、我々の意見も言いながらお互いで作り上げていってこのデザインに落ち着いたというところでしょうか。
初めて優勝した2005年に近く、近年にはなかったモデルです。両肩に入っているシェブロンのマークも青と黒で自然な形で溶け込んでいます。これが白であれば、かなりイメージが変わっていたかもしれません。青黒にしてもらったので、スマートな感じになった。そういう話し合いができるのがエスエスケイさんでした。地元の大阪でこういう連携ができる会社に支えてもらえるのは、本当にありがたいです。
――全体的にかけたグラデーションで青く燃える炎をイメージ。機能的には吸水速乾、軽量、素材は100%リサイクルPETを使用とのこと。ユニフォームのデザインや機能性について選手にも意見を聞くのですか
チームマネジャーを通して聞きます。モニタリングやテストもします。変更の前年ぐらいからやりますが、いまはどこのメーカーのユニフォームも非常に機能的になっていますから信頼して任せておりますが、デザインへのこだわりは変わりなく強く持っていますね。
――新しいhummelのユニフォームでストーリーを作りたい。チームの成績と連動するのが一番話が早い
そうなんですよ。ブランドストーリーをつくりたい。今回遠藤保仁選手(磐田)の代名詞だった背番号7番をキャプテンになった宇佐美貴史選手が着けることになった。7を引き継ぐことでユニフォームが売れるひとつのきっかけになった。さらにどう進化させていくか。契約交渉するときって、強い弱いって大事。弱かったら中々しんどいわけです。今回の契約交渉の時期は最近で一番厳しかった(笑)。強かったら強気で言えるところもありますから。
――クラブとしては2002年から西野朗監督が就任。03年からのumbroのユニフォームとともにクラブがアップトレンドに入っていきました
そこからチームがだんだん強くなっていって、2005年に届かなかったタイトルを手にすることができました。翌年からユニフォームにタイトルを示す☆が入る。袖のJリーグのエンブレムがチャンピオン=金色になるんですよ。
タイトルを取ったらみなさん堂々とユニフォームを着てもらえる。スタジアムではガンバのユニフォームを着てるけど、行き帰りはかばんの中に入れていた人が、家からユニフォームを着てくるようになったのも事実。関西クラブで初優勝したのは2002年度シーズンの天皇杯の京都サンガだったんですが、一番重要なリーグ戦を関西で最初に取ったというのが大きかったですね。カップ戦も制してどんどん☆が増えていった。さらに大きいのは2008年にアジアチャンピオンを獲れたのは、世界の扉を開け、加速度が変わりました。
通常ユニフォームは2年毎にデザインを作っていたのですが、2012年まさかのJ2降格が待っていました。13年J2で優勝して1年でJ1に復帰するのですが、J1に上がるならばユニフォームを変えようとなり、それ以降毎年デザインを変更することになりました。14年にリーグ、ナビスコ杯、天皇杯を制して3冠を取ってさらに☆が増えた。2016年にパナソニックスタジアム吹田が完成して、ユニフォームの中にスタジアムの絵柄をシャドーで入れた。これが最も売れました。製造だけで28000枚-30000枚とメーカーから伺っています。待望の新しいスタジアムにファン・サポーターの感情移入があったのでしょう。伝統の青と黒のストライプは変えていません。
ユニフォームが売れだすと、スタジアムのお客さんが座るスタンド(もともと青ですが)が、さらにガンバ色に染まっていく。その光景を眺めるのは、クラブにかかわる人間として大変うれしいものです。
――2021年に30周年を迎えたガンバ大阪は新たなブランドコンセプトを発表。ブランド戦略にはストーリーが大切になる
チームが勝つとストーリーの加速は変わってきます。パートナーも同じだと考えています。ガンバ大阪と組んだら地域や街がどう変わっていくか、会社がこういうCSRやSDGsを積極的に組んでいます、こういう理念がありますなど。hummelとしては100周年を迎え、新しいストーリーを作りたかった。我々としては大阪のクラブというのは外せなかった。シーズンが進んでいってファン・サポーターのみなさんの感情移入が生まれてきてほしい。あの選手のゴールが、ファインセーブが俺の人生を変えたな、あのときのユニフォームは…とか。かつてのエムボマのときは白いエリやったかな、あのユニフォームはアディダスやったなあとか、あの初優勝のときに等々力で大泣きしたのはumbroだった。そういう苦しかったり、楽しかったりの思い出し方をしてもらえる。そうなっていくのは時間がかかると思いますが。
――昨年末のカタールW杯では多くのヒストリーが生まれました。G大阪のアカデミー出身でトップチームを経て欧州に移籍したMF堂安律選手が2ゴールを決めて、インパクトを残しました
宮本恒靖選手、稲本潤一選手、大黒将志選手、宇佐美貴史選手らに続き、我々のアカデミー出身の選手がW杯という大舞台で活躍してくれるのは、クラブ関係者としては本当に感慨深いものがあります。
堂安選手は高校2年生でトップに昇格しました。また当時ガンバ大阪が編成していたU-23チームでJ3でもプレーしていました。早くして欧州に移籍しましたが、アカデミー、U-23から育ってきた選手というのは、ファン・サポーターにとっても長い期間見守っているので、選手への思い入れがそのままストーリーになっていきます。
日本代表に選ばれると我々のクラブ代表でがんばってこいとサポーターの誇りになります。東京五輪に選ばれ、そして今回のカタールW杯でドイツ戦、スペイン戦で同点ゴールと大きな仕事をやってのけました。その堂安がガンバ大阪のときに着ていた背番号38番のユニフォームには、これからも様々なストーリーが折り重なっていくのではないでしょうか。
――伊藤さんは四日市中央工高のご出身。四中工の後輩FW浅野拓磨(ボーフム)がドイツ戦でゴールを決めました
タク(浅野)からやりました!ってメールがきました。あんなトラップからのシュート見たことない(笑)。ノイアーの横を抜けていくなんて。けがをしていて、最後の最後で代表に選ばれたけど(出身地の三重県)菰野町(伊藤氏も菰野町の出身)ではそんなに盛り上がっていなかった。応援会を開いても、あいつ多分出えへんしとかいって(笑)。ところが、1点決めたら次の試合からエライ人が集まって、やっぱりアイツは神やなーって。その前までは菰野町は阪神タイガースの西勇輝やでとか言ってたのに。みんな変わるんです。で、そのとき日本代表のユニフォームは、浅野が履いていたのはどこのスパイク?っていう思い出がブランドのストーリーになっていく。2002年日韓W杯でバットマンとして活躍したの宮本恒靖選手のユニフォームやスパイクとか。
hummel×ガンバ大阪のストーリー作りは、時間が懸かると思いますが、hummelというブランドを浸透させて、ストーリーを描いていきたい。クラブとしても売り上げというところでもhummelに貢献したい。日本代表がW杯に初出場した1998年、自国開催だった2002年W杯のように20年以上経っても、ファン・サポーターのみなさんと共有できるような思い入れをつくりたい。あのときのユニフォームやなあと。ガンバ大阪タイトル奪取の象徴的な背番号イメージは、この5番を着ていた宮本選手はあのとき…とか、7番遠藤選手の冷静なPKやスルーパス、10番の二川孝広選手があのとき…と思い返すように、いろんなところで人と人の人生、選手、クラブが繋がっていくシンボルのようなもの、それがユニフォームだと思うんですよ。新たな歴史をファン・サポーター、パートナー、ホームタウンで分かち合いたいですね。