【阪神18年ぶりVに盛り上がる大阪】
「コレ、パパが買った85年のがウチにある」
2003年秋、あべのアポロビル内の喜久屋書店で星野阪神優勝ムック本を手に取り、元バイト同僚のおネエちゃんはそう言った。18年ぶりのリーグ制覇に盛り上がる浪速の街のありふれた風景。当時まだ十代だった彼女はいまや二児の母親らしい。あれから長い時間が流れたのだ。大阪のド田舎にある大学を卒業して、週2回のヌルすぎるデザイン学校に行くという名目で天王寺に残った俺は、プロ野球をぼんやり見たり長居スタジアムでセレッソ大阪の試合を眺めたりとモラトリアム遊戯を満喫する日々。毎日のように部屋でひとり映画を観ては、あのシーンがダメだと文句を言う。自分は何一つ成し遂げちゃいないのに…。恐らく、実際に社会に出て勝負して「おまえは無力で無能だ」とジャッジされることから逃げ回っていたのだろう。
だから、阪神で盛り上がっている街とは距離を置いていた。何て言うのか、埼玉から来たよそ者にとって大阪で圧倒的人気を誇っていた阪神タイガースは“世間”の象徴だった。幸か不幸か90年代末から00年代初頭の阪神は4年連続最下位と暗黒期真っ只中。99年には名将・野村克也を招聘するも、全く浮上するきっかけすら見えず、ポップスター新庄剛志はニューヨークへ去り、補強も思うようには進まない。元阪神球団社長・野崎勝義氏の著書『ダメ虎を変えた!』では、「選手も甘いが担当記者もOBも悪い。主力選手たちはコーチの言うことをまったく聞かないし、岡田彰布2軍監督は辞めさせた方がいい」とひたすらボヤくノムさんの姿が書かれている。ついでにサウスポーエース井川慶は趣味のラジコンヘリに熱中する危機感のなさ。さらにダメ虎に追い打ちをかけるように、01年には野村夫人のサッチー脱税問題スキャンダルが襲うわけだ。
もちろん球団側は万が一の事態を想定して、騒動の裏で意外な大物に接触していた。あの仰木彬である。近鉄やオリックスで指揮を執り、95年がんばろうKOBEでは見事優勝を飾りイチローとともにヒーローに。関西での人気と知名度は抜群。01年限りでオリックス監督を退き、タイミングとしても申し分なし。66歳、最後の大仕事としてパ・リーグ育ちの仰木彬がついに甲子園にやってくる…のか? 調査をすると、監督としての戦略、采配、情熱はほぼ完璧。問題はただひとつ。やはりというべきか、仰木の奔放なプライベートである。近鉄やオリックスでは問題にならなくとも、阪神監督になるとマスコミの格好のネタになるのは明らか。結局、条件提示までしながら、電鉄役員が女性スキャンダルを嫌がり実現ならず。そんな時、もうひとりの大物の名前が浮上する。同年9月25日に中日監督の辞任会見をしたばかりの「燃える男」だ。なんと星野仙一が大阪へやって来たのである。
【王ダイエー打線、驚異の100打点カルテット】
期待通りに星野阪神は2年目の03年に18年ぶりのリーグV達成。日本シリーズでは王貞治監督率いるダイエーホークスと対戦することになった。不思議なものだ。80年代後半には王巨人vs星野中日で球界を盛り上げていた二人が、ダイエーと阪神の指揮官として対峙する。この年のダイエーは“ダイハード打線”と呼ばれ、派手で魅力的なチームだった。なにせ史上初の「100打点カルテット」結成である。
3番 井口資仁 率.340 27本 109点 OPS.1.011
4番 松中信彦 率.324 30本 123点 OPS.1.002
5番 城島健司 率.330 34本 119点 OPS.993
6番 バルデス 率.311 26本 104点 OPS.942
松中は打点王、城島は史上2人目の全イニング出場キャッチャーでMVPに輝いた。さらに驚くべきことに井口は42盗塁で自身2度目の盗塁王も獲得している。仮に福岡ドームに現在のヤフオクドームのようなホームランテラスが設置されていたら、40本・40盗塁も可能だったかもしれない。ちなみにバルデスは17年1月にオリックス駐米スカウトに就任してオールドファンを喜ばせた。
カルテット以外もダイハード打線は切れ目がなく、柴原洋が打率.333、村松有人は打率.324、当時22歳の川崎宗則も3割手前の打率.294と打ちまくる。なにせ史上最高のチーム打率.297、シーズン1461安打、276二塁打、2265塁打。規定打席3割以上が6人、100打点以上が4人。史上初の20得点以上4試合。凄い、凄すぎて書いていて恍惚の表情になるこの感じ。さらにチーム147盗塁はリーグトップと打って、走って、総合力では04年巨人の“史上最強打線”を上回る完成度だった。これだけの記録的猛打を誇りながらも、チームリーダーの小久保裕紀が右膝の怪我で1年間出場できていなかったのだから、恐ろしい戦力だ。
【若き投手陣を支えた20勝3敗の大エース】
こう書くと2003年のダイエーは打撃だけのチームと思われがちだが、実は投手陣も若く魅力的な選手が顔を揃えていた。和田毅、杉内俊哉、新垣渚のいわゆる“松坂世代”の存在である。当時23歳の彼らは和田が14勝で新人王、自身初の二桁勝利を記録した杉内は日本シリーズで2勝を挙げMVP獲得。新垣も8勝、速球王と注目された高卒2年目の寺原も7勝と質量ともに黄金時代到来を予感させるメンツだが、この豪華先発陣において絶対的エースとして君臨したのが斉藤和巳だった。
95年ドラフト1位で入団した身長192cmの大型右腕は右肩の故障に苦しみ一時は野手転向も囁かれていたが、8年目の03年シーズンに開幕投手を任せられると一気に開花。先発16連勝という快記録を樹立し、パ・リーグ18年ぶりの20勝投手に。最終的に20勝3敗の堂々たる成績で最多勝・最優秀防御率・最高勝率・ベストナイン・沢村賞を総なめにした。何の実績もなかった斎藤自身はこれが野球人生ラストチャンスと思って気力を振り絞り投げ続け、シーズンだけで体重が8キロも減ったという。
ダイハード打線に加えて、20勝投手を擁し、日本シリーズでも星野阪神に4勝3敗で競り勝ち日本一に輝いた2003年のダイエーホークス。その栄光の裏で、チーム崩壊は進行していた。シーズン終了後に不可解な無償トレードで巨人へ移籍することになる小久保は、引退後に出版した自著『一瞬に生きる』の中で、福岡ドームの選手サロンに一部のフロントが連れ込んだ取引先の役員やホステスがいたり、試合後のヒーローインタビューにはフロントが酒に酔った赤ら顔で、グラウンドまで個人的な招待客を引き連れて選手に記念撮影やサインをねだることもあったと書き記している。やがて小久保放出は彼を慕うナインたちの優勝旅行ボイコット問題にまで発展してしまう。
強者どもが夢の跡。翌04年には球界再編へと突き進み、ダイエーはソフトバンクに買収されてその役割を終えた。のちに多くのメジャーリーガーを輩出し、小久保は侍ジャパン監督となり、井口はロッテ監督に就任。
ダイエーホークスは消えたが、今も彼らの生き残りはプロ野球界のど真ん中を歩き続けている。
(参考文献)
『一瞬に生きる』(小久保裕紀/幻冬社)
『ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年』(野崎勝義/朝日新聞出版)
『週刊プロ野球 セ・パ誕生60年 2003年』(ベースボール・マガジン社)
『日本プロ野球偉人伝 2000→2005編』(ベースボール・マガジン社)
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