ガン闘病公表3週間後の早すぎる悲報

日本を代表するファイターの突然の不幸に、誰もが言葉を失った。

第一報は9月18日正午過ぎ、所属していたKRAZY BEEのオフィシャル・ツイッターアカウントによってもたらされた。

8月26日には自身のインスタグラムで、ガンで闘病中であることを明かしていたばかり。「絶対元気になって、帰ってきたいと強く思っていますので温かいサポートをよろしくお願いします!」との表明に、心配する声、元気づける声が集まっていた。しかしまさか、それからたった3週間で最悪の知らせが届くなどとは、誰も思っていなかった。

改めて説明の必要もなさそうだが、KIDは163cmの小柄な体格ながら、独特の存在感で多くのファンを魅了し、日本の格闘技界を引っ張ってきたスター選手だった。父・郁榮はミュンヘンオリンピックでグレコローマン日本代表、姉の美憂と妹の聖子は世界選手権優勝というレスリング一家に育ち、2001年に修斗のリングで総合格闘技デビュー。俊敏な動きと圧倒的な攻撃力で勝利を重ね、あっという間に頭角を現した。

筆者がKIDの試合を初めて見たのは3戦目、01年9月2日の門脇英基戦だった。門脇も2勝1分とデビューから無敗同士の対戦だったが、KIDは1R、パンチ一発で試合を決めてみせた。その日はたまたま後楽園ホールのバルコニーから、リングを見下ろす形で観戦していたのだが、KIDの右フックで倒された門脇の目が完全に飛んでいるのがハッキリと見えて、戦慄を覚えたものである。

KIDの狂気じみた攻撃性が一躍知られることになったのは、翌年5月の勝田哲夫戦だ。コーナーに追い詰めてパウンド(グラウンド状態で打ち下ろすパンチ)を連打し、勝田の動きを止めたKIDは試合を止めたレフェリーの制止をものともせず、舌を出してパンチを打ち続けた。反則であり、スポーツとして認められる行為ではない(実際に120日間のライセンス停止処分も受けた)が、見る者の想像を越えるほどの攻撃性が衝撃を呼び、この一戦がより大きな注目を集めるきっかけとなったのも確かだった。

様々な業界の人たちから寄せられる追悼の声

2004年にはK-1に初参戦。2月のK-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメントでは1回戦で村浜武洋に2RKO勝利。それまで戦っていた65kgより5kgも大きい70kg級での試合、しかも立ち技初挑戦で相手は王座の経験もある村浜という、マイナスハンデしかない状況ながら、しなやかな動きの末にKO勝利をものにしたKIDは(負傷により以後のトーナメントを棄権したことも相まって)さらなる驚きをもたらした。

TV中継も行われる大舞台で衝撃デビューを果たしたKIDは、一躍時の人となり、同年大晦日には魔裟斗との「世紀の一戦」が実現。試合には敗れたものの先制ダウンを奪う大健闘を見せた。こうした活躍を受けて、翌05年にK-1が立ち上げた新MMAイベント「HERO'S」ではエースとして活躍。以後07年末まで、HERO'Sと年末のDynamite!!ではトーナメント優勝を含む負けなしの8連勝、しかも7勝がKO、うち3つが1RKOという、「快進撃」としか言いようのない活躍ぶりだった。

このうち、多くの人がまず思い出すのは06年5月3日の宮田和幸戦だろう。開始のゴングと同時にダッシュして跳びヒザ蹴りを決め、わずか4秒でのKO勝利。「驚愕」「衝撃」「鮮烈」……その瞬間には、これらの言葉を全て連ねてもまだ表現しきれないほどの感情を含んだ大歓声が場内に充満していた。

その後、ヒザの負傷による長期欠場を経て09年から参戦したDREAM、11年から参戦したUFCでは満足な結果を残せず、特にUFCでは負傷による試合キャンセルも相次いだ。15年以降は実戦からも遠ざかっていたが、ファンはずっと、それこそガン告白の後も、またKIDが戦う姿を見られる日を待ち望んでいた。だがその願いも叶えられないまま、訃報を聞くことになるとは……。

突然の知らせを受けて、多くの人々がKIDの冥福を祈り、思い出を語っている。格闘技選手や関係者はもちろんのこと、サッカーの長友佑都も「山本KIDさんに憧れて、学生時代髪型を真似したり、筋トレしたりしていました。信じられません。ご冥福をお祈りします」とツイート。その活躍が、幅広い層に影響を及ぼしたことが分かる。

また、KIDと接した思い出、一緒に撮った写真を公開している人も多く見受けられる。強面の外見とは裏腹に、ファンにも気さくに接していたことの表れだろう。筆者は直接の取材は数度しかないが、05年に彼の写真集&DVDに少し関わらせてもらい、打ち上げの席で同席させてもらった時の印象が強く残っている。ちょうどお互いに第1子が誕生した直後で、親バカトークをさせてもらった。「子供のために、一眼レフのいいカメラを買ったんですよ。たくさん撮っちゃいますよね」と笑っていた顔が、訃報とともに脳裏に浮かんだ。

適正よりも上の階級で、時には異なるルールでの試合でも平然と戦い続け、いくつもの名場面を生み出した。自ら「神の子」というキャッチフレーズを生み出し、そのライフスタイルにも多くの人々が憧れを抱いた。そして若くして突然この世を去り、KIDは「伝説」となってしまった。本人はレゲエやヒップホップを好んでいたようだが、彼の軌跡はまるでロックスターのそれだ。そしてKIDの「伝説」はこれからもずっと語り続けられるだろう。本当は、こんな形で伝説になるよりも、生き続けてほしかったが……。

新生K-1が見せた、驚異のリカバリー。“メイン消滅”の悪夢をどう立て直したのか?

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ネリが見せた比類なき“ヒール”、次のターゲットは井上尚弥か

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[追悼]名プログラム『CARUSO』にフィギュアスケーター・デニス・テンの永遠の命を感じたい。

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高崎計三

編集・ライター。1970年福岡県出身。1993年にベースボール・マガジン社入社、『船木誠勝のハイブリッド肉体改造法』などの書籍や「プロレスカード」などを編集・制作。2000年に退社し、まんだらけを経て2002年に(有)ソリタリオを設立。プロレス・格闘技を中心に、編集&ライターとして様々な分野で活動。2015年、初の著書『蹴りたがる女子』、2016年には『プロレス そのとき、時代が動いた』(ともに実業之日本社)を刊行。