貴ノ富士の暴行とは

なぜ貴ノ富士が引退を勧告される事態になったのか、簡単に振り返っておこう。それは9月3日に遡る。この日、相撲記者は大忙しだった。午前8時に発表される官報に、大物の日本国籍取得が掲載されたからだ。そうモンゴルが生んだ大横綱・白鵬が、ムンフバト・ダヴァジャルガルから日本人・白鵬翔に変わったまさにその日である。日本で親方になるために大横綱が下した決断に後押しされて角界がさらに盛り上がるぞ、となるはずだったその日の夕方「貴ノ富士が再び暴行」のニュースが飛び込んできた。

大横綱の新たな門出に泥を塗った暴行問題。26日にコンプライアンス委員会の調査結果が発表されたのでそれで短く振り返ろう。貴ノ富士はことし5月ごろから7月ごろにかけて、仕事で失敗ばかりする新弟子に「ニワトリ」やら「ヒヨコといったあだ名を付け、新弟子に鶏の鳴き声に近い「コケ」と返事をするよう強要するなど差別的な扱いをした。さらに稽古総見のあとには自分より先に風呂に入った付け人である新弟子に腹を立て、新弟子の額を右手の手拳で1回殴打し、殴られた新弟子は額にコブができたというものだ。

ハラスメントやコンプライアンスという言葉がこれだけ浸透した世の中で、まだこんなことやっている奴がいるのかと耳を疑いたくなるような行為だった。しかも、貴ノ富士は、去年の3月貴公俊時代に別の暴行を起こし1場所出場停止の処分を受けていた。まさに”再犯”で、情状酌量の余地はみじんもない状態だった。

前代未聞の個人プレー

振り返れば、日馬富士から始まる暴力の連鎖だが、貴ノ岩の暴行、貴ノ富士の最初の暴行と、度重なる暴力問題のたびに相撲協会の幹部は世の中に謝罪し、いわゆる研修を実施してきた。その間に、十両力士の暴行事案は出場停止1場所を軸に情状などを考慮するなどの処分基準を策定し、いわばまっとうな力士たちを守る施策も実施してきた。そこで起きたまさかの”再犯”、はっきり言って相撲協会のなかに貴ノ富士を擁護する声はなかった。

それでも相撲協会はコンプライアンス委員会に調査を依頼し、公明正大に事実関係を明らかにし処分するという大原則を貫き、その公表と処分決定が9月26日の理事会で行われるはずだった。その前日に突然出てきたスポーツ庁への上申書。協会の幹部は、驚きを通り越して”呆れ”に近い感覚になっていたのは想像に難くない。

しかも、この上申書は、相撲界のタブーをいくつも犯しているのだ。そのひとつが、師匠をとび越したものであることだ。現役の親方時代、貴乃花はこう説いていた。「師匠は親であり、弟子は息子である」と。貴ノ岩が日馬富士に暴行されたあの問題を事件化したのは、まさに「親が子を守る」に等しいと。この師弟関係に異論はまったくない。まさに大相撲の根底にある理念である。しかし、貴ノ富士はその理念を簡単に踏みにじった。師匠を飛ばし、弁護士名でスポーツ庁に上申書を送るという掟破りをやってしまったのだ。

師匠が貴乃花親方でもそうしただろうか? 答えはノーであろう。人によっては千賀ノ浦親方は貴乃花親方のように弟子を守ってくれないというかもしれない。しかし、もう角界に貴乃花はいない。わずか1年の関係でも師匠は千賀ノ浦親方である。大相撲の根の中の根っこともいうべき師弟関係を信頼できない貴ノ富士、その行為は先代師匠の顔に泥を塗ったに等しいのだ。

前代未聞の反旗

もうひとつ貴ノ富士が犯したタブーがスポーツ庁へ駆け込んだことだ。理事会の前日に貴ノ富士の弁護士は「相撲協会(コンプライアンス委員会)や師匠から引退勧告があった」という趣旨の話をしている。これを相撲協会は「処分を決めるのは理事会。理事会の前に引退勧告なんて決まらない」という理由で完全否定した。しかし、師匠を通じて事前に「引退勧告」になるよといった空気を伝えていたのは事実だと思う。その理由は最終的な理事会決定でよく分かる。

9月26日、相撲協会の理事会は「将来を考えて懲戒処分とはせず自主的に引退を促す」という決定を下した。2度の暴行問題を起こしながら懲戒処分としての「引退勧告」(実質的な解雇)ではなく自ら身を引く道を作ったのだ。結局は相撲界を離れることには変わりがないが一般企業でもクビと自主退社では大きな差があるのと同じように、22歳という年齢も考慮して将来を見越した温情を見せたわけだ。そう考えれば、誰かが「自ら引退する覚悟を持てよ」という意味で「引退」という言葉を師匠に耳打ちしたのだろう。優しさのつもりが、スポーツ庁への上申書という予想もしない展開になってしまい、ここでも顔に泥を塗られたと思った協会関係者は実際に複数いた。

貴ノ富士には代理人の弁護士がついている。ということはいろいろな人からアドバイスを受けての行動だろうが、先代師匠、貴乃花の行動とダブって見える人も多いと思う。日馬富士事件のときに貴乃花親方が使った手法だからだ。あのとき、結局はスポーツ庁への意見書を取り下げた。さらには、その意見書について年寄会で徹底的に追求され窮地に立たされた。それを見ていたはずの貴ノ富士が何故と思ってしまう。その本当の理由まではたどり着いていないが、それもまた貴乃花の残した負の遺産と見られても仕方がないだろう。

貴ノ富士よ、もうこれ以上大横綱の顔に泥を塗らないでくれ。そう思うのは私だけではないはずだ。


VictorySportsNews編集部