つらさ

 大関経験者が幕下以下で出場すること自体が初めてだった。この事象一つ取っても歴史的なカムバックだが、そこに至る道のりが大変だった。膝の故障に悩まされて2017年九州場所で関脇に転落。さらに糖尿病などの内臓疾患も重なった。両膝を手術し、一時期は普通に歩くことすらままならなかったという。心は折れ、師匠の伊勢ケ濱親方(元横綱旭富士)に何度も引退を申し入れた。

 当然ともいえる。一時は大関として、日本相撲協会の看板力士になった。そこから番付の上で、下から2番目の段まで下がった。角界では散り際の潔さも美徳の一つ。ましてや大関ともなった立場で、周囲には厳しい目もあった。現役を続ける姿に「看板を汚すな」との声も上がった。そんな中でも伊勢ケ濱親方は、けがを理由に辞めてしまえば後悔が残ってしまうとおもんぱかり、本人を説得して現役に引き留めた。普段は厳しい指導で知られる師匠は、あるとき「気持ちがなえないように、前向きな話しかしていない」と明かしたことがある。どれほど弟子を鼓舞してきたかが分かる。

 復活した昨年春場所の土俵には、全盛期より張りを失った体で両膝に大きなサポーターを装着して上がった。しっかり稽古をしていない状態にもかかわらず地力の差は明白で、相手をはたいて難なく勝利を挙げた。西の支度部屋に戻った照ノ富士に、関取時代にはいた付け人はいなかった。1人でまわしを取ると、入り口付近にドカッと腰を下ろし、戸惑いも交じったような表情で口を開き始めた。「何と言っていいか分かりません。こういう気持ちは初めてですからね。もちろん緊張はしました」と心境を吐露。そして「体を鍛え直して幕内に上がることが大事。人の前ではつらさを見せられません」と決意をにじませた口ぶりは印象的だった。

格差

 大関という地位はかつて、番付の最上位だった。その昔、横綱とは大関の中の最強者という意味の尊称で最高位を表す地位ではなかった。春場所の横綱鶴竜がそうだったように、大関が空位の場合は横綱が兼ねて「横綱大関」として番付に記されるほど、欠かせない地位として重要視されている。序二段との格差は〝天と地〟だ。

 まずは金銭事情。現在に合わせると、大関には毎月250万円の給与が支給され、これだけでも単純計算で年収3千万円となる。一方の序二段はというと、月給はなく、場所ごとに8万8千円の手当が出るだけ。年換算すると約53万円で、約2950万円の減収となる。もちろん、大関ともなると取組への懸賞金も少なくなく、差は額面以上だ。

 身の回りの世話は付け人がしてくれるし、通常の東京開催場所では、大関以上に地下駐車場での出入りが許可される。さらに昇進する場合には関脇以下とは大きく異なり、日本相撲協会の理事会の承認が必要となる。ここで認められた後で伝達式を執り行う。照ノ富士は2015年夏場所後の伝達式で「今後も心技体の充実に努め、さらに上を目指して精進いたします」と口上を述べた。まさに大相撲興行の屋台骨を支える存在だけはある。

 そんな厚遇を受けた後で、序二段からの再出発。番付が根幹をなす相撲界にあって、何よりも精神的にプライドの問題も横たわる。横綱と大関でも差はあるだろうが、看板力士ともなると感覚が常人とは違う面がある。例えば、照ノ富士の兄弟子だった横綱日馬富士は2014年秋場所後の巡業で、直前の秋場所で旋風を巻き起こした新入幕の逸ノ城に関し「もし逸ノ城と当たったらどういう作戦でいきますか?」と聞かれた。答えは「こっちは横綱だ。作戦も何も、普通にやるだけ。そういうことは向こうに聞くもんだろう」と強烈な自負をにじませた。

 他のスポーツとは一線を画すような番付への意識。照ノ富士が序二段から復活したことに関し、大関経験を持つ複数の親方は「自分だったら想像できない」と口をそろえた。照ノ富士自身は復帰当初、序二段では負けられないという気持ちかと問われ「そこは気にしていません。負けようが」と話した。プライドを吹っ切り、常識を超えた境地でよみがえった。

己を知る

 古代中国の兵法書「孫子」には戦いに向けての心構えとして次のように説いている。「彼を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」。歌手の吉田拓郎さんのヒット曲「今日までそして明日から」の歌詞には、自分の生き方というものは自分を知るところから始まるものだろう、とある。時代を問わず、そして洋の東西を問わず、自分自身を知ることの大切さは広く言い伝えられている。

 照ノ富士の味わった艱難(かんなん)辛苦は本人以外に想像できないほどだ。膝の故障はもちろん、2017年春場所で熾烈な優勝争いのさなか立ち合いに変化した際には観客から「モンゴルに帰れ」と、人種差別的で極めて心ないやじを浴びたと報じられ、関係者によると政府が相撲協会に事実関係などを問い合わせた事態もあった。心身ともにぼろぼろの状態でも歯を食いしばり、その時々にできることに黙々と取り組む姿勢があった。自らを見つめ直しながらの道程。23歳で初優勝し、自称「イケイケだった」かつての姿は消え、精神的な落ち着きが育まれた。

 それが取り口にもつながった。4月下旬に夏場所の新番付が発表になり、再入幕が決まった。その後、夏場所が中止となり、番付はそのまま7月場所にも適用。照ノ富士は7月場所への準備として「今までずっと上半身で相撲を取ってきていました。幕内ではそう簡単にいかないと思っています」と語っていた。序二段から7場所で幕内に返り咲いてもおごることなく、自らと向き合って客観的に分析した。下半身から攻める意識を稽古から徹底。新型コロナウイルス禍で1場所中止となった長い期間を生かし、じっくりと着実にレベルアップに成功。7月場所では下半身の故障につながりやすい強引な投げは影を潜め、前に出る内容で安定感が向上した。

 2011年技量審査場所で初土俵を踏み、一度は結びを務めるほど華やかな立場で活躍した。その後で午前中の土俵に逆戻りし、7月場所13日目には再び結びに登場し、大関朝乃山を撃破。千秋楽夕方の表彰式で天皇賜杯を抱いた。相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)は「初っ口からやってきて結びで取るのは力士の夢。朝の8時前から相撲を取り始めて、6時前に相撲を取れるんだからね」と番付を上げていく喜びを説明する。そんな醍醐味を、図らずも2度経験した照ノ富士。新型コロナで不安が渦巻く世の中にあって、己を知ることの重要性を体現してくれた28歳の優勝劇でもあった。

高村収

著者プロフィール 高村収

1973年生まれ。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事