他を寄せ付けないエキサイティングな快走劇

 序盤から先頭に立つと、400mを66秒42、800mは2分11秒91で通過する。田中のハイペースにつけたのは昨年の日本選手権で中距離2冠に輝いた卜部蘭(積水化学)だけだった。田中は1200mを3分17秒89で通過すると、バックストレートで卜部を引き離す。終盤はさらにスピードを上げて、フィニッシュラインに駆け込んだ。無観客のスタジアムが一瞬にして華やかになった。優勝タイムは4分05秒27。小林祐梨子(須磨学園高・当時)が2006年に樹立した日本記録(4分07秒86)を14年ぶりに塗り替えた。大歓声はなかったが、スタンドの記者席にいた筆者が自然と拍手をしてしまうくらいエキサイティングな快走劇だった。「レースの記憶はなくて、終わってみたら日本記録を出せていて本当にうれしいです。日本記録を出せる練習はできていたんですけど、やっと同郷(兵庫県小野市)の小林祐梨子さんの記録を抜くことができたという感慨深さがあります」と田中は声を弾ませた。

 今年7月に行われたホクレン・ディスタンスチャレンジでも快走を連発した。4日の士別大会は1500mで日本記録に0秒82と迫る4分08秒68(日本歴代2位)をマーク。8日の深川大会では3000mで福士加代子(ワコール)の8分44秒40を18年ぶりに更新する8分41秒35の日本新記録を樹立した。さらに15日の網走大会は5000mでセカンドベストの15分02秒62、18日の千歳大会は3000mを8分51秒49で走っている。

レース前のトラブルにも動じないメンタル

 今大会は女子1500mの日本記録更新が大いに期待されていたわけだが、レース前には思わぬトラブルに見舞われた。使用予定だったシューズが800m以上のトラック種目では靴底が「25㎜以内」という世界陸連の新規定(※世界陸連の新規則は11月30日までが移行期間で、主催者の判断で改正規則を適用できるか決定できる)に沿わないと判断され、父・健智さんがホテルに急いで戻り、規格に合ったスパイクをレース直前に届けている。そんなアクシデントがありながらも、田中は冷静に走っているように見えた。本人は「レースプランはいろいろ考えていたけれど、私は考えすぎると不安になってしまうタイプ。今日はタイムのことは考えず、通過タイムも気にせずに走りました」と話しているが、レースの〝リズム感〟が素晴らしかった。

 1200mまでは1周(400m)65~66秒台で刻み、ラスト300mでアタック。しっかりと切り替えてペースを上げている。昨年の日本選手権で惜敗した卜部を6秒以上も引き離すと、日本記録も2秒以上更新した。中長距離種目は風の抵抗を受けるため、先頭を走ると体力が削られていく。そのため、記録を狙うレースでは「ペースメーカー」が途中まで引っ張ることが多い。しかし、田中は一度もトップを譲ることなく、日本新記録で走破した。近年の陸上界ではちょっと考えられないことだ。東京五輪の参加標準記録は4分04秒20。1年前は日本人ではかなり難しいと思われた女子1500mの出場権も射程圏内に入った。新国立競技場に舞い降りたヒロインは底知れぬ可能性を秘めている。

異色のキャリアと過去にない成長曲線

 田中は日本の中長距離界で独特のキャリアを歩んできた。中学時代は3年時の全中1500mで優勝。西脇工高では3年時のインターハイで1500mと3000mで日本人トップ(ともに2位)に輝いている。高校卒業後は同志社大に入学。世界を目指すために大学の陸上部には所属せず、クラブチーム(ND28AC)で競技を続けた。高卒1年目の2018年はU20世界選手権の3000mで金メダルを獲得している。

 昨季からは豊田自動織機TCに所属を変更。豊田自動織機には女子陸上部(昨年の全日本実業団女子駅伝8位)があるが、田中は駅伝に参加せず、別の流れで競技に取り組んでいる。指導は実業団経験のある父・健智さん(母・千洋さんも北海道マラソンで2度優勝した実績を持つ)が行うようになり、田中はさらに躍進することになる。
昨秋はカタール世界選手権に5000mで出場した。予選で自己ベスト(15分15秒80)を大幅に更新する日本歴代3位の15分04秒66で突破。決勝では日本歴代2位の15分00秒01(14位)の快走を見せた。初のシニア世界大会で5000mの東京五輪参加標準記録(15分10秒00)をクリアした。

 田中のように中学・高校で大活躍をした女子ランナーは高校卒業後に〝失速〟するケースが少なくない。1500mの高校歴代記録10傑に入っている選手を見ても、10人中8人が高校時代のベスト記録を超えていないのだ。一方、1500mで高校歴代2位のタイム(4分15秒43)を持つ田中の成長曲線は〝異常〟ともいえる。昨年、自己ベストを4分11秒50まで伸ばすと、今季はさらに6秒以上も短縮。先述したとおり、レース内容を考えると、まだまだタイムの伸び代がある。

 日本選手権は10月の1500mと12月の5000mに出場予定。2冠を目指すだけでなく、両種目とも日本記録の更新が期待される。田中は身長153㎝と小柄ながら、走りは力強く、女子5000m日本記録保持者(14分53秒22)の福士加代子(ワコール)にはないラストの爆発力がある。今後どんな進化を遂げるのか。東京五輪のヒロイン候補に注目してほしい。


酒井政人

元箱根駅伝ランナーのスポーツライター。国内外の陸上競技・ランニングを幅広く執筆中。著書に『箱根駅伝ノート』『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。