熟慮

 北海道出身の竹内は12歳からスノーボードを始めた。専門のアルペン種目とは、斜面に設置された旗門をクリアしながら、いかに速くコースを滑り降りるかを競うもの。欧州や北米勢が強く、かつては日本選手が世界で対等に戦うのは厳しいとの声もあった。竹内は海外への武者修行などで腕を磨き、壁を打破。ワールドカップで何度も表彰台に立った後、五輪のメダリストになった。冬季五輪には2002年ソルトレークシティ大会から5大会連続出場中。2018年平昌五輪でも5位に入賞するなど、世界的に確固たる地位を築いた。

 平昌五輪終了後の約2年半は競技を離れ、進退を保留していた。今年8月、現役を続行することと2022年北京五輪を目指すことを宣言した。そしてこのほど、決意の裏側には卵子凍結があったと告白したのだ。自身のブログで、自らの人生に真剣に向き合い、熟慮を重ねたことを明かした。卵子の老化や出産などについて、海外選手とオープンに話すことによって身近なトピックとして考え、大好きな競技を続けながら将来的に子どもを持てる可能性を残すような選択に至ったと説明した。

市民権

 卵子の凍結保存は1990年代後半頃から技術が進歩してきた。がん治療の副作用などによる不妊回避の理由で始まり、近年では健康な女性でも仕事と妊娠出産の両立が難しいといった観点から将来を見越して希望するようになった。米国では2014年に交流サイト大手のフェイスブックが、凍結保存を望む女性従業員に対して費用を補助する制度を導入して話題になり、ITのアップルも実施するなど次々に追随する企業が出てきた。有能な人材確保の一環という面もあった。

 日本では、PRやスポーツマネジメントなどを手掛けるサニーサイドアップが2015年に時代に先駆けて卵子凍結補助制度を発表。日本の民間企業として初の導入となった。また同年、千葉県浦安市が少子化対策として全国で初めて公費助成し、順天堂大浦安病院と共同で凍結保存研究を始めた。行政による支援は珍しく、議論を呼んだ。一方で、凍結卵子を利用して将来妊娠できるという保証はなく、体外受精が成功しても高齢出産となった場合のリスクなども指摘されている。医師たちの間で推奨を巡って見解が分かれており、日本では海外に比べて市民権を得ていない現状がある。

 竹内はさまざまな想定を包括して考え抜き、気持ちを固めたという。ブログに「できる努力を全てしたいと思っています。そうする事で将来、どんな結果が待っていてもそれを受け入れられると思っています」と覚悟が伝わってくる言葉で思いをつづった。

抑圧

 日本でも近年、産休制度などを積極活用する企業を見聞きするが、結婚や出産を機にキャリアを諦めざるを得ない女性も依然として多い労働環境が根強く残っている。裏を返せば、女性の人生における多様性の問題にも行き着く。日本の近代を多角的に論じた書籍「日本―喪失と再起の物語」(デイヴィッド・ピリング著)には次のような記述がある。

「人口のほぼ半数を占める女性の潜在能力が、社会的慣習によって抑圧された状態が続いているのだ」

 男女間の格差問題で国際的に劣っているとする数値がある。スイスのシンクタンク、世界経済フォーラム(WEF)が発表している「男女格差報告」の2019年版で、日本は対象の153カ国中121位と低迷した。政治、経済、教育、健康の4分野を指数化して算出するデータで、先進7カ国(G7)の中では、76位のイタリアから大きく差を開けられて最下位。政治の面で議員や閣僚に占める女性の比率が低く、経済という点でも指導的地位にある管理職や経営者が少なかったり、男女間の賃金格差が大きかったりすると分析された。

きっかけ

 こうした社会情勢で、女性の人生をこれまで以上に豊かにしようという取り組みが、日本のスポーツ界から発出してきている。例えば、女子テニスの大坂なおみ(日清食品)は、ナイキやローレウス・スポーツ・フォー・グッド財団(ローレウス)などと連携し「プレー・アカデミーWITH大坂なおみ」というプログラムを設立。スポーツには性による固定観念を打ち破り、男女の平等を促すパワーがあるとし、より多くの女の子のスポーツ参加を手助けすることを目的に挙げている。スポーツを通じてポジティブな経験を積み、ひいては人生において挑戦し続ける姿勢を育むという活動だ。

 卵子の凍結保存は極めて繊細でプライベートな出来事だ。海外メディアによると、タレントのパリス・ヒルトンさんが卵子凍結によって将来は双子を持ちたいと希望を明かした他、外国では卵子凍結を公表している有名人が何人もいる。これに対して日本では他に見当たらない。だからこそ、今回の竹内の行動自体も社会に一石を投じる形になり、多くの人たちに女性の多様な生き方について考えるきっかけを与える可能性を秘めている。

強気

 思えば、竹内に初めて個別にインタビューしたのは2006年トリノ五輪の前年に当たる2005年8月だった。当時、トレーニング拠点の一つにしていた北海道富良野市を訪問。21歳だった竹内からは、昔から球技が得意で通知表の体育はずっと「5」だったことや、頭の先からつま先まで全身をうまく連動させることを身に付けるために日本舞踊を習っていることなどを聞き、2時間近く多岐にわたって丁寧に取材に応じてもらった。

 その後、さらなる成長を期して2007年に単身スイスに渡り、レベルの高いスイス・チームに頼み込んで一緒にトレーニングさせてもらうようになった。元オーストリア代表ヘッドコーチのスタドラー氏への熱心なオファーが実り、2011年から指導を受け始め日本へ戻った。目標へ向かい、その時々に何が必要かを念頭に置いた行動力は以前から光っていた。2016年3月には左膝前十字靱帯断裂の大けがに見舞われても前向きな姿勢を失わずに見事に復活。長年にわたって世界の一線級で活躍している道程を見れば、しっかりした信念を持って卵子凍結を実行したこともうなずける。

 北京五輪開催まで1年半を切った。参加できることになれば38歳で迎え、さらには自身の持つ冬季五輪の日本女子最多連続出場記録を6度に更新することになる。競技から離れたブランクはあるが「やるからには金メダルを狙っていきます」と強気だ。15年前のインタビューで印象的だった大きな瞳には、今も変わらず強い意志が宿っている。アルペンレーサーとして誰よりも速くコースを駆け抜けるように、成熟した一人の人間として新たな道を切り開いている。

旭川旭岳温泉・湧駒荘サイトより

高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事