批判がつきまとった人生

 利き足の左足から魔法をかけたようなパスやシュートを繰り出した。最も輝かしい実績といえば、1986年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会の制覇だろう。とりわけ準々決勝のイングランド戦で見せた「5人抜き」でのゴールは、史上最も素晴らしい得点シーンの一つとして語り継がれている。

 同じ試合で、ヘディングに見せかけて手でボールをゴールに入れた「神の手」も語り草だ。これが大きな波紋を広げたように、人生にはいつも批判がつきまとった。1991年にはコカインの使用により、15カ月間の出場停止処分を受けた。英ファイナンシャル・タイムズで記者をしていたジミー・バーンズの著書『ディエゴ・マラドーナの真実』によると、本人は後年、次のように告白した。「私が初めてコカインを試したのはバルセロナにいた82年で、まだ22歳の時だった。ハイになりたかったんだ。はっきりさせておきたいのは、薬をやり始めたのは何も私だけじゃないということだ」とスペイン時代の出来事を明かした。

 また同著では、イタリア1部リーグ(セリエA)のナポリで活躍した時代に現地マフィアと交際があったと指摘。1994年2月には、ブエノスアイレス郊外の別荘を訪れた報道陣に対して空気銃を発砲して負傷させ、のちに執行猶予付き禁固2年の有罪判決を受けた。同じ年のW杯米国大会では、興奮剤など禁止薬物の使用で大会追放の衝撃的な出来事。コンプライアンスがさけばれている昨今では「一発アウト」の事案もあるかもしれないが、圧倒的なカリスマ性でこれらをはじき飛ばしてきた。

サッカーは情熱そのもの

 亡くなった後の反響がそれを物語っていた。アルゼンチンのフェルナンデス大統領は、3日間の喪に服すると発表。ブエノスアイレスの大統領府にひつぎが置かれると、一般弔問のために人々が殺到。入場を規制しようとした警察との間で衝突まで起き、弔問が予定より早く打ち切られたほどだった。埋葬のため墓地へ向かう沿道では、ユニホームを着たり国旗を持ったりした群衆が最後の別れを惜しんだ。

 国際サッカー連盟(FIFA)も全211加盟協会に対してその週末の全試合で黙とうをささげるよう要請。欧州チャンピオンズリーグやアジア・チャンピオンズリーグなど世界各地で英雄の死を悼んだ。また、アルゼンチンが生んだ屈指のストライカー、メッシや「王様」と呼ばれたペレやジーコ(ともにブラジル)ら著名人たちがマラドーナへの哀悼を示すコメントを出した。ちなみにFIFAが2000年12月に発表した「20世紀最高の選手」では、特別委員会の選定などではペレに決まった。しかし、インターネット投票部門では53%以上の圧倒的な得票を集め、マラドーナが1位。いかに人々から支持されていたかを証明した。マラドーナは生前、ペレとの対比を音楽の世界に例え、ペレをベートーベン、自身を世界最高峰のロックバンド、ローリングストーンズのメンバー、キース・リチャーズやロン・ウッドを合わせたような存在だと分析。「なぜなら俺のサッカーは情熱そのものだからだ」と強烈な自負を漂わせた。

サッカーを汚さない、サッカーは世界で最も美しい

 人心掌握の要因となった稀有な存在感は、誰にもまねできないようなパフォーマンス、貧しい家庭環境からの立身出世などから生まれた。「5人抜き」で分かるように、足元に吸い付くようなドリブルやボールさばき。3歳の誕生日プレゼントでもらったサッカーボールに常に触れ、培った感覚。少年時代にはテレビ番組に出演し、サッカーボールのみならず、左足を使ってオレンジや空き瓶を操る芸をしたこともあるという。1980年代、日本のサッカーブームに火を付けて一世を風靡し、その後世界に広がった漫画に「キャプテン翼」がある。主人公の大空翼の信条は「ボールは友達」だった。マラドーナはそれを体現していた。

 生まれたのが1960年10月30日。ブエノスアイレス郊外の貧困地域、ビジャ・フィオリートで育った。『ディエゴ・マラドーナの真実』には、幼少の頃の生活について、列車に無賃乗車してブエノスアイレス中心部に行き、タクシーの乗客にチップを無心したり、たばこの空き箱を拾い集めて内側の銀紙をはがして売ったりしていたと紹介。著者のバーンズは「政府は貧窮者の保護には全く関心がなかった。だから自らの知恵で生き延びる以外に方法はなかった」とした。自分の力を発揮して何としてでも試合に勝利し、栄冠を勝ち取る―。サッカーにおけるプレースタイル、選手生活の方法論の原点にもなった。

 15歳でプロデビューし、16歳でアルゼンチン代表に選ばれるなど早くから富と名声を手に入れた。それゆえ、貧しい時期をともに過ごしてきたファミリーを人一倍大切にする一方、周囲を自身が信頼を置くイエスマンで固めたとの指摘があったのは、世間のさまざまな風当たりに煩わされたくないとの気持ちがあったとしても不思議ではない。

 他人からの評判などどこ吹く風。自らの信じた道を歩んだ。その結果、ときには不祥事につながった。それでもフィールドにおいては尋常ではないオーラを発していた。マラドーナは「サッカーは世界で最も美しく、健康的なスポーツだ。自分はいくつか過ちを犯したが、サッカーを汚したことはない」と競技への敬意を口にしていた。ボールを巧みにコントロールし、得点を挙げれば体全体で歓喜を表現したり、負ければ不満をずけずけまくし立てたり。人間味あふれる行動には、サッカーへの衰えぬ情熱が表出し、ファンの共感を呼んだ。プロ野球ソフトバンクの王貞治球団会長はかつてマラドーナをこう表現した。「あの無邪気さは天性のものだろうが、僕の目にはとても美しいものとして映った」。

すごみを感じさせたW杯イタリア大会

 逆境を救って勝利に導くのがスーパースターの条件の一つとするならば、86年W杯のイングランド戦と同等に、すごみを感じさせたのが90年W杯イタリア大会。決勝トーナメント1回戦で顔を合わせたブラジル戦だった。泥くさく、何が何でも勝つという点においてむしろ、救世主らしさを象徴していたのはこの試合だった。

 この年、戦力不足からW杯2連覇は難しいとの前評判だった。開幕戦で格下のカメルーンに敗れ、1次リーグを辛くも通過。おまけにマラドーナは左足首を負傷し、痛み止めの注射を打たなければならなかった。対するブラジルは、伝統的な華麗な攻撃を捨てる代わりに、現実的な戦術で確実に勝利を重ねるフォーメーションで1次リーグ3戦全勝。のちに日本のJリーグでプレーすることになるFWカレカ(柏)、MFドゥンガ(磐田)、DFジョルジーニョ(鹿島)の全盛期で、アルゼンチンは圧倒的に不利の予想だった。

 立ち上がり早々、カレカが縦パスに抜け出してゴールに迫り、かろうじて失点を防いだ。その後ドゥンガのヘディングがポストをたたくなど完全なブラジルペース。後半に入っても相手の攻撃で何度も球がポストに当たるなど、ボクシングでいえばダウン寸前だった。しかし36分、マラドーナは一瞬の隙を逃さなかった。自陣センターサークル内からボールを持ち上がると、相手の厳しいチェックにこのときだけは転ばなかった。さらにドリブルで進み、引っ張ったブラジル選手の寄せに倒れ込みながら、利き足とは反対の右足でスルーパス。狙い澄ましたように相手選手の股間を抜けると、受けたFWカニージャが虎の子の決勝点を挙げ、南米のライバルを奈落の底へ突き落とした。得点直後、実況アナウンサーが印象的な描写を言葉にした。「今、マラドーナがしきりに十字を切っていました」。ピッチに入るときや試合が始まるときなど、神への感謝を表す姿はマラドーナのいつもの光景。結局、主力に故障者を抱えながら、チームを準優勝にたどり着かせた。

世の中へのアンチテーゼを示し本当の伝説へ

 現在は怒りにまかせたアスリートの言動は以前にも増して非難の的になりやすい風潮だ。SNSが発達し、動画などが瞬く間に世界中に拡散。選手の側としてはスポーツのイメージやスポンサーへの気遣いもあり、謝罪に追い込まれることが少なくない。マラドーナはその対極にあった。現役を引退して監督業に就いても喜怒哀楽を前面に出し、破天荒さを持ち合わせた。汚れ役を引き受けてもなお、深く愛された。

 常に全力で闘っていたこともある。第一に貧困からの脱出。そして165cmと、日本人男性の平均よりも低い身長で、恵まれた体格のアスリートを打ちのめした。有名なのがナポリ時代。ライバルのACミランにはフリット、ファンバステン、ライカールトと190cm前後の〝オランダトリオ〟がいたが、胸を張ったプレーで上回り、リーグ制覇を成し遂げた。左派思想に傾倒してキューバやベネズエラの首脳らと深い交流を持ち、現代物質社会の象徴たる米国への反発も貫いた。弱者の視点から、世間を覆う常識というものへの挑戦。自分が放ったシュート、通したパス、自らの振る舞いこそ正義だといわんばかりの姿勢だった。

 マラドーナのような傑人は今後、どんな競技にも誕生しないかもしれない。「自分は特別な存在だ。ただ、それは神のご意志によるものだ。いいプレーができる能力を、生まれながらに与えてくださった。だからピッチに入るときに私はいつも十字を切る」。その体軀同様、太く短めの人生はタイムアップ。背番号10をまとって地球を熱狂させ、世の中へのアンチテーゼを示しながら本当の伝説となった。


高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事