第1次スワローズ時代~1998-2009年~

 メジャー球界へと渡る前の五十嵐は、荒々しく豪快な投球フォームから150km超のストレートを連発する、若さを前面に押し出した剛球投手そのものだった。

 「誰よりも速いボールを投げたい」「160kmで三振をとるのが夢」――。自らの武器を豪速球と定め、セットアッパー、さらには絶対的なクローザーとして最優秀救援投手(2004年)に輝くまでに上り詰めた第一次スワローズ時代。五十嵐本人曰く「イケイケドンドン」だった若さ溢れる“じゃじゃ馬期”を、手綱巧みに導いてくれた二人の恩人とは。

プロ野球選手として目指す方向性の指針になった古田敦也

 2000年に最優秀バッテリー賞を受賞するなど、スワローズの黄金バッテリーの一組である五十嵐-古田。五十嵐が一軍デビューをした当初は制球が定まらず、身を挺して捕球する古田が“ゴールキーパー”と称されることもあった。しかし、自慢の速球を臆することなく全力で投げ込めたのは、球界一の捕手が叱咤激励をしながらミットを構え続けたからこそだ。ヤクルトを黄金時代たらしめた扇の要からの多くの金言を支えに、五十嵐は日本を代表する名リリーバーへとのし上がっていく。


「『こういう選手にはなるなよ』とか『こういう発言はよくない』とか『こういうプレーはプロとして恥ずかしい』とか、とにかくいろいろな言葉をかけていただきましたね。いいプレーのときも悪いプレーのときも、1プレーごとに細かく教えてもらっていたので、プロ野球人としてどういう選手になっていくかという方向性を決めたのは古田さんなのかなと思いますね。

 ただあの人はね、結果に対しては言うけれども、基本的には自分で考えて行動していきなさいというスタンスの人。もし結果がよくなかったら、自分でその原因がわからなければいけないし、明らかにズレた判断をしている場合は早い段階で注意をしてくれていましたけどね。だからある程度個人を尊重して、人を伸ばしていくタイプの方なのかなと思います。

 この間テレビの企画で久しぶりに古田さんを相手に投げましたけど、さすがでしたねぇ~。そのときに年齢の話になって、古田さんが『俺もう55だぞ!おまえがプロに入って間もない頃の若松勉くらいの歳だぞ』と言っていて、時の流れを感じましたね(笑)」

一軍への道しるべを築いてくれた小谷正勝

 横浜(大洋)のコーチ時代は“大魔神”佐々木主浩、昨年までヤクルトの一軍投手コーチを務めた元メジャーリーガー・斎藤隆、今年から横浜DeNAベイスターズの指揮を執る三浦大輔。そしてヤクルトでは、石井一久、川崎憲次郎、現役最多勝利数を誇る・石川雅規などを育てた名伯楽。小谷はプロ一年目の五十嵐を、二軍のイースタン・リーグ優勝決定試合とウエスタン・リーグ覇者とのファーム日本選手権で先発させるなど、手塩にかけて一軍への道を着実に歩ませた恩人だ。


「コーチと選手の関係というよりは、一人の人間対人間の関係性を築けた方かなと思います。技術面であったり、洞察面だったり、とにかく“見る目”が古田さん同様に優れている方だったので『そこを見てるんだ!』っていう驚きが多くて、話していて面白い人でしたよね。

 僕がプロに入った直後から、ブルペンで後ろに付いてすごく熱心に見てくれたんですよ。『なんでこの人、こんなに俺にべったり付いて見てくれるんだろう』と思うぐらいに。あと一年目に、二軍ではあるけどなぜか大事な試合を任せてくれたんです。イースタン・リーグの優勝が決まる試合で使ってくれたり(※1)、その後のイースタン・リーグとウエスタン・リーグそれぞれの優勝チームが戦うファーム日本選手権(※2)でも僕を使ってくれて。どうにかして僕を世に出すために段階を踏ませようと一軍への道筋を作ってくれていた。

 僕はそのときは全然そんな気持ちに気づかないし、自分では一年目からいくぜ!ってイケイケだったので、まぁ何も考えずにひたすら真っ直ぐを投げ込んでいたんだけども(笑)。そういう風に僕の未来まで考えてくれているコーチだったので、本当に感謝しています。

 この間も久しぶりに、小谷さんの息子さんがやられているお寿司屋さんで一緒に食事をしました。指導を仰いでいたときは10代から20代前半だったけど、僕も大人になって、20数年経ってこの歳になったときに『あぁ、素敵なおじさんに会ってよかったな』って思いましたね、話していて。今になって会っても落ち着くし、安心感を与えてくれる人ですね」


※1……1998年9月26日のイースタン・リーグ、ロッテ戦で先発。雨によるコールドゲームとなり、6回参考記録ながら完全試合を達成し、チームは19年ぶり4回目のイースタン・リーグ優勝を果たした。
※2……同年10月10日のファーム日本選手権、阪神戦で先発。5回を1安打無失点に抑え、チームは初のファーム日本一に輝き自身もMVPを受賞。

ソフトバンク時代~2013-2018年~

 3年間のメジャーリーグ生活を経て2013年に五十嵐は日本球界へ復帰する。選んだ地は、渡米前とリーグも本拠地も異なる福岡ソフトバンクホークス。既にリーグはおろか球界を代表する常勝軍団になっていたソフトバンクで、チームに欠かせないセットアッパーとして3度の日本一に導く活躍を見せる。競争が激しく、タレント豊富なソフトバンクでの出会いも、ベテラン期に差しかかっていた五十嵐に多大なる刺激を与えた。

”自分にはない”絶対的コントロールに惚れ込んだ摂津 正

 斉藤和巳、和田毅、杉内俊哉、新垣渚……。平成のソフトバンクは球界を代表する名投手を数多く輩出した。8年という長い社会人野球生活を経て26歳でプロ入りした摂津正もその一人だ。プロ入り当初はリリーフで起用され最優秀中継ぎ投手に輝き、その後先発に転向して沢村賞も受賞。「一時期は摂津だけで(チームが)勝ってるときもあったぐらいだから」と、正確無比なコントロールを武器にチームのエースとして君臨した遅咲きの男に、五十嵐は感服する。


「ヤクルトで一番衝撃を受けた選手は石川だけど、細かいコントロールとかでいったら、摂津もすごかったですね。アイツはリリーフから先発に転向しましたけど、本当によく練習してね。すごかったですよ、彼の練習する姿勢っていうのは。頑固な男でね、寡黙で、僕らが何回ちょっかい出してもクールに返されてね(笑)。たぶんいろいろと痛いところもあったと思うんですよ。ただそれも周りには一切言わず、黙々とやるタイプでした。同じ秋田県出身者でも石川は練習中もまぁ~よくしゃべるほうなんですけどね(笑)。共通点として、寒い地域出身の選手って身体が強いのかなって思いますよね。いやぁ、摂津は凄かったなぁ。」

第2次スワローズ時代~2019-2020年~

 2018年オフにソフトバンクを戦力外になり、アメリカでのプレーを模索しながら海外での自主トレをしていた五十嵐に手を差し伸べたのは古巣・ヤクルトだった。2009年以来10年ぶりに神宮のマウンドに帰ってきた五十嵐は、速いストレートはそのままに、相手を幻惑させる変化球と投球術を駆使し、また“マウンド上での咆哮”も新たな代名詞となるなどアップデートされていた。「精神的な粘り強さがあるチームカラーは変わっていなかった」と復帰後のヤクルトの印象を語る現役最晩年の五十嵐は、同学年でありながら投手陣の中心であり続けるよきライバルと、自分の後釜となる後輩たちに熱いエールを送る。

最も影響を受け、最も刺激を受けたライバル 石川雅規

 2021年のシーズン開幕前の時点で積み重ねた勝ち星は「173」。現役最多勝利数を誇り、これまで24人しか達成していない200勝の頂を目指す石川雅規。同学年で、お互いを「マサ」「亮太」と呼び合うよきライバルには「プロ野球人生で最も影響を受けた」と最上級の敬意をささげる。“小さな大投手”を語る口調は、自然と熱を帯びた。


「ヤクルトに復帰してからはマネばっかりしてました。最後のほうは石川モデルのグローブを使ってたし、同じスパイクを使ってたし、全部マサがやってきてこれだ!っていうのをマネしているような選手になっていました。

 マサに関してはちょっと存在が特別でね。『コイツすげぇな』と思うことが多いから、マサがいいと言っていたり使ったりしてるモノってどうなのかなって興味があって。マサもマサで『これいいよ』とか、周りによく言うんですよ。ただアイツも気が変わるのが早いから、いいって言ってた一週間後には、こっちのほうがいいよとか平気で言っちゃう(笑)。そのへんの彼自身のトレンドの移り変わりがとにかく早くて。『おまえ、一週間前と言ってることが全然ちげーじゃねーか!』なんていうのはザラで、もうついていけねーやって(笑)。でもそれくらい考えて、何が一番いいかっていうのを、常に追求してやっていく人ですよ。

 たとえば、マサは一球一球マウンドの位置を変えて投げたりしますよね?すると相手は当然『なんだ⁉』となるわけですよ。バッターボックスから見える景色が変わるから。でも、投げるほうも景色が変わるから大変なはずなんですよ(笑)。だからなんて言うんだろう、繊細さと鈍感さ、その両方がないとそういう工夫もなかなかできないと思う。

 彼の場合、変化したりトライすることに勇気が必要だとすら思っていない。僕らぐらいの年齢までくると、どうにかして抑えるために、自分の能力を上げることよりも、いかに相手にイヤなイメージを持たせるかっていうことを強く追い求めるようになるんです。特にマサは俺らを置き去りにして、それをどんどんやってしまいますよね。そういう工夫をしてるときの彼の顔とか見たことないでしょ?もうそれは恐ろしい顔をしてますよ。バッターを抑えるためには何だってする。じゃなきゃ、あの身体の大きさで、あのボールのスピードでやっていけないですよ。

 200勝はファンじゃなくても見たいでしょう。もちろん簡単ではないけど、やると思うし、やってほしい」

ヤクルトの後輩リリーバー、そして未来のエースへ

「抑えたときよりも打たれたときのほうがニュースになりやすい。抑え続けることが当たり前に思われている。そんなところが中継ぎの魅力」。引退会見で語った五十嵐亮太の“中継ぎ考”だ。五十嵐は最後の二年間で、後輩たちにこの言葉を幾度となく言い聞かせたのだろう。日米通算906登板をすべて救援で重ねた男は、今のスワローズのリリーフ陣と投手陣をどう見ているのだろうか。

歯がゆい、でも大きな期待をせずにはいられない梅野雄吾

「個人的には梅野がもっと来てほしいんですけどね。梅野がイマイチまだちょっと迷いがあるというかね。彼の場合は似たようなピッチングに、似たような打たれ方をしてしまうことが多い。よくない結果が出たときに、”なんとなく”プレーしていっちゃダメなんですよ。もっと高いところを求めて、何か自分に変化をもたらしていかなければならない。

 彼の投球スタイルはソフトバンクの森(唯斗)とも被るところがあって。ただ森は打たれたときに、その理由は何だっていうところを突き詰める姿勢、反応がめちゃくちゃよかったから。そういう姿勢が、梅野には今のところまだ足りないかなと思ってますね。持ってるものはめちゃくちゃいいんですよ!あれで今の成績(しか残せない)なんていうのは、僕からしたらちょっと、『どうなのお前?』って感じです。もったいないし本人の問題なんだけど、本当なら厳しく言いたい。彼に対しては特に」

スケール大きく、もっとどん欲に。メジャーまで意識してほしい奥川恭伸

「彼は非常にストイックに練習をする選手でした。もちろん練習もそうだし、自分に足りないことを積極的にコーチに聞いて、じゃあどうするべきかっていうのを自分で考えながらやっている選手なので。もともとのポテンシャルがあるのに加えて、考え方もしっかりしてるなという印象を受けましたね。

 ただ、自分の中で小さくまとめようとしないかが心配でもあります。スケールの大きいところを目指していってほしいので。でも彼はね、良くも悪くも謙虚なんですよ。今は謙虚さなんかいらないから、もっともっとどん欲に、どんどん自分の長所を追い求めて、もちろん日本だけでなくメジャーまで意識してプレーしてほしいなと思いますね」

令和の東京ヤクルトスワローズへ捧げる愛の言葉

「もちろん昔のように強くなれます。ただ時間がかかるし、かけたほうがいいかなとも思います。去年のドラフトから育成選手を多く獲るようになったっていうのもあるし、今年はそのへんの根本的なところを見直していくキッカケになる年でもあるので。

 まずは長いこと勝ち続けるための、土台を作っていかないといけない。でも、その中でも勝ちにいかなきゃいけないんですよ? 勝ちながらも、同時に未来も明るいと感じさせなければいけない。

 ソフトバンクのように、ある選手がいなくなっても次にこの選手が出てくるという、輩出しては入れ替わる仕組みを作っていかないといけないし、作り続けなければいけない。先を見据えてね、常勝チームを作っていきたいですよね」

INFORMATION

昨年12月、五十嵐亮太公式インスタグラムを開設(@ryota_igarashi53)。また、今シーズンからは野球解説者を務める。解説デビューは3月4日のオープン戦・巨人VSヤクルト@東京ドームに決定。

メジャー経験を経て強くなった男、五十嵐亮太

2000年代初頭には当時日本球界最速の158kmを記録し、日米通算906もの試合において、リリーフ一筋で腕を振り続けた剛腕にして鉄腕、五十嵐亮太。剛速球がトレードマークの男は、その自身のアイデンティティを23年の現役生活で誇示し続けた。それは、飽くなき向上心と好奇心、そして進化と変化に対する渇望の産物だ。アメリカで残した成績の成否によってではない。メジャーリーガーとしての“経験”が、五十嵐亮太をさらに強くした。そんな、五十嵐亮太の野球人生とこれからに迫る。

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熊谷洋平

新卒でスポーツ新聞社(大阪配属)に入社し、編集センターにて阪神タイガース関連の記事を中心に紙面レイアウト制作に従事。 その後、雑誌の世界に転じ、編集プロダクションを経て、現在出版社勤務。幼稚園年長の頃から東京ヤクルトスワローズ一筋。幼少期から選手名鑑を穴があくほど読み、ほぼすべての選手のキャリアを空で言えるのが特技。Twitter@yoheihei170