「私がオリンピックを目指さない最大の理由は、仮に日本が優勝しても、上野由岐子さん以外に日が当たらないからです。逆に北京オリンピックで、例えばレフトを守っていた人を言えますか?」

 東京五輪で金メダルを期待されるソフトボールだが、2008年北京五輪で413球を投げて伝説となった上野を除き、日本代表候補の知名度は決して高くない。仮に本庄が日の丸を背負って金メダルを獲得しても、その名が人々の記憶に残り続ける可能性は低いだろう。それがソフトボールの悲しき現実だ。

 ならば、自分は違う形で価値を創り出したい。本庄がそう考えるようになった原点は、高校時代にある。

日本一を経験、燃え尽き症候群に

「日本一って、こんなものかと思ったんです。思っていた喜びの1万分の1という感覚でした」

 岡山の創志学園に特待生として入学した本庄は、3年時にインターハイを制した。栄光の裏にあったのが、体育会の日々だ。寮暮らしで恋愛禁止、髪の毛はショートカット限定。1学年上の代で負けが続いた頃、自分たちで「携帯電話を禁止にしよう」と決めたほどストイックに打ち込んだ。その甲斐あり、創部4年目で初優勝を成し遂げている。

「瞬時に思ったのが、“携帯返してほしい”。優勝したから監督は機嫌がいい、お願いしても怒られないと思ってキャプテンに話しに行ってもらったら、めっちゃ怒られたみたいです」

 日本一の果実はまるで甘くなかった。優勝したら有名になれると楽しみにしていたが、取材は地元メディアに限定され、テレビでもほとんど取り上げられなかった。監督にすれば、選手たちを全国制覇で浮かれさせず、次の山に向かわせようとしたのかもしれない。だが、本庄の心には靄がかかった。

「正直、日本一だけを見てきたから実現できたと思います。でも、大したことないと感じて燃え尽き症候群になりました。卒業後も大学でソフトボールを続けることは決まっていたけど、何をモチベーションにやればいいのか。迷いながら大学に入りました」

 進学した立命館大学では4年生に優秀な捕手がいて、1年目は楽しくプレーできた。しかしエースになった2年目、左肩を故障する。70代半ばの監督は「エースと一蓮托生」が信条で、本庄は肩の痛みを口にできず、我慢して腕を振り続けた。インカレには出場できたが、ついに痛みに耐えられなくなった。2年秋から半年間の休みをもらったが、それでも治らない。

「もしかして、2度と同じパフォーマンスに戻れないのではと思ったんです。その瞬間、ソフトボールをなくした本庄遥の価値はないって、怖くなりました」

 小学2年で始めたソフトボールを続けていけば、一生食べていけると信じていた。日本リーグ1部のトヨタ自動車やホンダ、日立など大企業に籍を置けば、安定した環境でプレーを続けられる。そうした道に暗雲が立ち込めたのが、ちょうど大学3年の就職活動の時期だった。今の投球内容では、自信を持って上の舞台に進めない。ソフトボール一筋できた本庄がアイデンティティを失いかけたのは、ある意味で必然だった。

 そんな折に思い出したのが、高校時代の日韓交流戦だ。インターハイ優勝チームとして招かれ、初めて外国人と対戦した。ストレートの球速が特段速いわけではない本庄だが、得意のチェンジアップで相手打線を封じ込め、「チェンジアップ」というあだ名をつけられた。自分の変化球は海外で通用するかもしれないと、大きな自信を手にした。

 だが、外国人相手に腕試しする機会は2度と巡ってこなかった。アジア選手権では創志学園から野手3人が日本代表に選ばれたものの、インターハイで自責点0の本庄は落選。日の丸を背負う投手陣は、いずれも高身長のスピードボーラーだった。154cmの自分は、どんなに結果を残しても選ばれないのだろうか。日本代表になりたいという気持ちは、いつしか心の奥に封印された。

レールから外れて

 そんな想いを解き放ちたくなったのは、レールから外れかけた頃だった。

「日本代表に選ばれないなら、自分で確かめに行こう。そう思って、オーストラリアへの留学を決めたんです」

 1996年アトランタ五輪から4大会連続でメダルを獲得したオーストラリアは、世界で最もソフトボールが盛んな国の一つだ。本庄は大学3年秋から休学し、当地のクラブチームに加入した。肩が完治しないままブリスベンの大会に出場し、チームの3年ぶりの優勝に貢献している。痛みを我慢して腕を振るのは立命館大時代と同じだったが、決定的に違ったことがある。

「英語をまったく話せない私と親しくしてくれたメンバーたちに、少しでも恩返しをしたいという気持ちで決勝まで行きました。そこで勝ったときの喜びは、日本一の喜びを抜かしたと思ったんです。高校でバーンアウトしたことをきっかけに、私は別に優勝したいわけではなく、今一緒にいるメンバーで目の前の勝利に向かっていく瞬間が好きなんだとわかりました」

 クイーンズランド州U-23代表に選ばれるなど充実した1年半を送り、帰国後は次の夢を目指した。アメリカに渡り、日本人初のプロソフトボーラーになることだ。クラウドファンディングや最大25社のスポンサーから資金を集め、2020年3月に渡米する。しかし新型コロナウイルスの感染拡大でトライアウトどころではなくなり、やむなく帰国。数カ月後、日本リーグ3部のペヤングで2カ月限定の“助っ人”としてプレーした。

「ソフトボールをしたかったのと、助っ人で実業団に入る選手は今までいなかったので面白いと思いました」

 ペヤングの選手たちは日中、工場のラインに入り、業務後に練習する。疲労を溜めてグラウンドに出てくる姿を見て、本庄は「楽しくなさそう」と感じた。周囲の話を聞く限り、たとえ有名企業のチームに所属しても、決して高待遇ではない。給料をもらいながら競技を続けられる反面、引退後のキャリアは不透明だ。

 一方、本庄はオーストラリアで人生が開けた。プレーは週1日に限られたが、登板間隔が開いて肩への負担が減り、自身のパフォーマンスはむしろ上がった。レベルは日本ほど高くないものの、五輪のメダリストらと地元クラブで楽しみながらプレーし、日本一を上回る喜びに出合った。ソフトボールを介して地元選手たちとつながり、英語を話せるようになったことも収穫だ。スポーツは人生を豊かにする手段の一つだと、身をもって実感した。

独自の道を進む本庄。自身のソフトボール人生、そしてなぜ”フリーランス”という生き方を選んだのかを語ってくれた

 レールから外れてキャリアを重ねる本庄だが、日本代表やオリンピックを目指す選手を否定する気は毛頭ない。彼女には一意専心で打ち込むより、“フリーランス”のほうが合っているという話だ。

 今は3つの会社でマーケティングや営業として働きながら、ソフトボールは週に1度練習している。コロナの状況を見ながら、今年9月に再び渡豪してプレーするつもりだ。

「マーケティングという仕事に出合い、こんなに楽しいものがあるんだと知りました。ソフトボールも好きですし、ずっと海外でプレーしていきたい。日本一や世界一を目指す道とは全然違うところで尖って、面白い活動をしているなって見られたいんです」

 我が道を進む裏には、ソフトボール界の発展を願う気持ちもある。

「ソフトボールの認知度って低いじゃないですか。私のやり方で圧倒的な認知度をつけていけば、世界一を目指す人たちを、違う道から抜かせると思ったんです。そうなったとき、日本ソフトボール協会が私を必要としてくれて、マーケティングについて聞いてくるかもしれない」

 そう言って笑った本庄は、新しい「アスリート×スポーツ」の形をつくりたいと考えている。燃え尽き症候群は日本のスポーツ界が長らく抱える問題で、上意下達や体育会的なあり方は時代と合わなくなってきた。ストイックに一つの道に打ち込まなくても、スポーツと“何か”をかけ合わせることで開けるキャリアがある。本庄の野望は、ある意味、オリンピックを超える価値があるかもしれない。



「フリーランス」を選択したアスリートの挑戦・前編<了>

後編へ続く

フリーランスのアスリートは、スポーツを変えることが出来るのか?

世の中で兼業や副業、フリーランスなど働き方が多岐にわたってきたのと同じく、これまでと異なる形態で活動するアスリートが現れている。 高校時代に日本一を達成し、24歳の現在は特定チームに所属せず、“フリーランス”のソフトボール選手として活動する本庄遥はその1人だ。「女性ビジネスアスリート」という肩書きを名乗り、社会に新たな価値を生み出していこうとしている。

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中島大輔

1979年埼玉県生まれ。上智大学在学中からスポーツライター、編集者として活動。05年夏、セルティックの中村俊輔を追い掛けてスコットランドに渡り、4年間密着取材。帰国後は主に野球を取材。新著に『プロ野球 FA宣言の闇』。2013年から中南米野球の取材を行い、2017年に上梓した『中南米野球はなぜ強いのか』(ともに亜紀書房)がミズノスポーツライター賞の優秀賞。その他の著書に『野球消滅』(新潮新書)と『人を育てる名監督の教え』(双葉社)がある。