日本代表史上初めての、大会中の監督交代という“事件”
1997年10月4日。カザフスタン南東部の都市で、後に「アルマトイの夜」と呼ばれることになる日本サッカー界の歴史に刻まれる“事件”が起こった。
93年10月の「ドーハの悲劇」から4年。日本にとって悲願の本大会初出場を懸けたフランスW杯アジア最終予選は97年9月7日のウズベキスタン戦(国立)でスタートした。FW三浦知良の4ゴールもあって6-3で快勝発進した日本だが、アウェーのUAE戦に0-0で引き分け、続く韓国戦(国立)は逆転負け。敵地アルマトイでのカザフスタン戦ではロスタイムに同点とされ、4戦を終えて1勝2分け1敗と厳しい状況に追いやられた。
当時のアジアの出場枠は3.5(現在は4.5)。A、B各組の5チーム中1位のみが出場権を獲得し、2位はプレーオフにまわるため、最終予選での突破はもはや絶望的といえた。この危機に日本サッカー協会は大きな決断を下す。カザフスタン戦終了から約4時間後の午後9時半。加茂周監督に解任を言い渡し、コーチだった岡田武史氏の昇格をミーティングで選手に通達したのだ。
日本代表史上初めてとなる大会中の監督交代劇。当時は、まだクラブチームでの監督経験もなかった41歳の若き指導者が、いきなり暫定とはいえ代表監督になるという今では考えられない事態が起こった。短期集中で開催されていた最終予選は、アウェー2連戦の真っただ中。内部昇格以外の選択肢はなく、「急場しのぎ」の策と捉える向きも多かった。事実、岡田氏は「加茂さんがクビになった以上、私も辞めさせてください」と当初要請を固辞し、1試合限定で応じたという状況だった。
しかし、ここから徐々に歯車はかみ合い始める。当時では珍しいドイツへのコーチ留学を経験するなど、指導者として地道にキャリアを積んできた岡田監督は、後に「名将」と呼ばれるようになる才覚を、すぐさま発揮したのだ。
まずはMF中田英寿を初采配となった10月11日のウズベキスタン戦(タシケント)でいきなりスタメンから外し、UAE戦(国立)でMF北澤豪を代表に呼び戻すなど、チームに刺激を与え、戦術面を含めた変革に着手した。一方で、ウズベキスタン戦に途中出場した中田がスタメンを外されても腐らず、鬼気迫るプレーを見せたことで、逆に中田を軸としたチームをつくる決意を固める辺りには、情に流されず冷静に選手を見極める、その後の“監督哲学”が垣間見える。
そして、何よりチームを引き締めたのが岡田監督自身の変貌ぶりだった。ウズベキスタン戦に向けた初練習で「今日から『岡ちゃん』とは呼ばないでくれ」と、これまでの“親しみやすい兄貴分”といったキャラクターから一変、選手と一線を画すと、「俺は、俺の思い通りにやる。納得できない者は出て行ってくれ」と殺気立った表情で訓示した。試合前夜には愛妻に「明日、もし負けたら日本には帰れない」と強い覚悟も伝え、臨んだウズベキスタン戦は1-1で引き分け、何とか首の皮一枚つながった形。精根尽き果てたように涙を流す選手たちの姿に「投げ出すわけにはいかない」と意を決した“暫定監督”は、タシケントから帰国した足で東京都内のホテルに直行し加茂前監督と会談。正式に監督としてチームを率いる覚悟を伝えた。
監督更迭という衝撃は、それだけ選手たちにも大きな影響を与えていた。加茂監督の解任がミーティングで告げられた夜、DF井原正巳の呼び掛けで宿舎のリラックスルームに集まり、アルコールの力も借りながら選手だけで激論を交わした。「加茂さんのせいじゃない」「俺たちの責任だ」「可能性がないわけじゃない」。カズらドーハの悲劇を経験した世代と、アトランタ五輪でブラジルを破る「マイアミの奇跡」を演じるなど勢いに乗る中田ら若き世代の間にあったギクシャクした空気は、もうどこかへ吹き飛んでいた。
その後、日本は11月1日のソウルでの韓国戦に2-0で勝ち、同8日に国立競技場でカザフスタンを5-1で撃破。何とかグループ2位でアジア第3代表決定戦進出を果たし、同16日にはマレーシア・ジョホールバルでイランと本大会出場を懸けた一戦に臨むことになる。2アシストを決めた中田の活躍などで2-2とし延長に突入すると、延長後半13分に中田のミドルシュートのこぼれ球を岡野がスライディングしながら右足で押し込み勝利。ついにW杯本大会出場を勝ち取り、「アルマトイの夜」は「ジョホールバルの歓喜」という大団円で幕を閉じた。
楽観視はできない現在の日本代表チーム状況
今、日本がアジア最終予選で置かれている立場を考えてみる。4試合を終えて2勝2敗のグループ4位。本大会出場圏内の2位(オーストラリア)との勝ち点差は3で、残り6試合と、まだ「アルマトイの夜」の時ほどの切羽詰まった立ち位置とまでは言えない。
ただ、チームの状況は決して楽観視できるものでもない。4試合で挙げた得点は、たったの3。一部関係者からは、森保監督の選手起用や攻撃での積極性が足りない部分を疑問視する声も聞こえてくる。10月8日の敵地でのサウジアラビア戦では、決してコンディションの良さそうではなかったMF柴崎岳を使い続け、そのパスミスから失点して0-1で敗れる結果となった。一方で、同12日のオーストラリア戦(埼玉)では、重用してきた柴崎をスタメンから外し、4-3-3システムを採用。交代枠も使い切って2-1で勝ち切った。日本サッカー協会・反町康治技術委員長は「冷静沈着にやるべきことはできていた」「全面的にサポートしていく」と評価し、少なくとも年内の予選2試合は現体制で臨むことになったが、この“変化”を次に活かせるかが今後を占う重要な要素となる。
監督交代は積み上げてきたものをゼロにもしかねず、「アルマトイの夜」のように好結果を呼ぶとは限らない。リスク承知でギャンブルに打って出るのか、あくまで森保体制を維持して最後まで戦い抜くのか。ベトナム・ハノイからオマーンの首都・マスカットへと続くアウェー2試合が、その行方を大きく左右しそうだ。