―生い立ちとサッカーを始めたきっかけを教えてください。

松田氏:埼玉県三郷市で生まれたのですが、小学校1年生の時に1歳上の兄がさくらサッカー少年団に入っていたこともあり、そこでサッカーを始めました。そのクラブは当時、父が監督をしていて、兄も同じチームでサッカーをしていたので、その流れで私も始めることになりました。

―その後、少年団から読売クラブのジュニアユースに入団したのですね。その経緯は?

松田氏:読売クラブにはセレクションに合格して入団しました。何日かに分けてセレクションが開催されたのですが、私が受けた日は300人近くのセレクション生がいました。その中で合格したのは私だけでした。同学年の選手は10人前後でした。

―プロサッカー選手になりたいと思ったのはいつ頃からでしたか?

松田氏:読売クラブのジュニアユースに入ってからプロになりたいと強く思うようになりました。当時のトップチームには、ラモス瑠偉氏や都並敏史氏など日本代表として活躍していた選手も在籍していました。プロ化はまだしていませんでしたが、そういった選手の影響は大きかったですね。また、読売時代は1年生から3年生まで一緒に練習していたこともあり、自分より上手い先輩ともプレーしていました。そうした甲斐もあって、最初はついていくのが大変でしたが、プレーのレベルもかなり上がりましたね。

―その後、読売クラブのユースには上がらず、大宮東高校に進んだのですね。

松田氏:読売のユースに昇格する道もありましたが、高校選手権に憧れていたこともあり、大宮東高校に進学しました。大宮東を選んだのは読売クラブ出身の田口貴寛さんがコーチをされていたことが1番の理由です。

―高校サッカーというと走りが多く、厳しい監督やコーチがいるイメージですが、当時の練習はどうでしたか?

松田氏:練習時間も長く、走りも多かったので本当にきつかったですね。それこそ当時は、インターネットも今のように普及していないため、情報もありませんでした。そのため、練習方法も専門家でない人達にも聞いているくらいでした。全てが試行錯誤しながらでしたね。他の人も言っていますが、今よりも昔のほうがメンタルは鍛えられると思います。

―当時、埼玉県の高校は全国大会でも上位に進出することが多かったと思いますが、埼玉県内の高校サッカーのレベルはどうでしたか?

松田氏:当時の埼玉は大宮東と武南の2強でしたね。大宮東も私が1年生の時に高校選手権で全国ベスト8に入ることができました。そこでの活躍もあってU-16日本代表にも選んでもらえました。武南高校にも鹿島アントラーズなどでプレーした室井市衛氏など、良い選手が本当に多かったですね。

―その後、浦和レッズに入団されるまでの経緯は?

松田氏:当時、埼玉県の国体選抜に選んでもらっていて、その試合を浦和のスカウトの方が観に来てくれていました。それからも試合や練習で声をかけていただき、高校3年生の冬にチームの練習に呼んでもらいました。その帰りのバスの中で「このままいけば契約することになる」と言われ、その後、選手権が終わってから正式に契約しました。

―浦和レッズへの入団を機にプロ生活をスタートさせたわけですが、高校サッカーとのレベルの違いなど苦労はありましたか?

松田氏:高校サッカーではトップレベルでやっていたので、それなりにできると思っていたのですが、プロはそれ以上にレベルが高く、非常に苦労しましたね。浦和レッズではサテライトチームでは試合に出場していましたが、結局トップチームでは試合に出場することができませんでした。また、今のように体のことに関する知識も無かったので、そういったコンディション面でも大変でしたね。

10年間のプロ生活

―松田さんが入団した1993年はJリーグ元年で「Jリーグバブル」となっていたかと思いますが、やはり当時の盛り上がりはすごかったのですか?

松田氏:本当にすごかったですね。チケットが全然手に入らないし、サテライトでプレーしていた自分ですら、試合会場から自分の車にたどり着くまでにファンに囲まれている状況でしたからね。本当に芸能人みたいな扱いを受けていました。年俸も億を超える選手も多く、高級車に乗っている選手ばかりでしたね。

―浦和で2年間プレーされ、当時JFLだった鳥栖フューチャーズ(現在のサガン鳥栖)に移籍されますが、鳥栖に入団した経緯は何でしたか?

松田氏:浦和では2年目にサテライトチームのキャプテンをやっていたので、「もう1年いれるかな」と思っていたのですが、契約満了になりました。その際に「チームは自分で探してくれ」と強化部から投げつけられました。そこからプロクラブと繋がりのありそうな知り合いの名前をノートに全部書き出しました。そこで2クラブに練習参加したのですが、補強ポイントが異なるといった理由から、契約には至りませんでした。そこで、大宮東高校時代の恩師・田口さんから「お前九州に行ってこい」と言われ、九州に飛んで鳥栖に練習参加して入団が決まりました。

―浦和ではなかなか出場機会が得られずにいたかと思いますが、移籍した鳥栖では試合に絡めるようになったと思います。松田さんご自身の視点で、自らが他の選手より勝っている武器は何だと思いますか?

松田氏:私はDFでしたが、足が速いわけでもなく、身長が高いわけでもありませんでした。その分、他の選手よりも「考えてプレーする」ことを意識していました。ボールの取り方も他のディフェンスの選手が奪いに行くタイミングではなく、一歩引いて相手に行かせてから奪うことを意識していましたね。考えてプレーできることとボール奪取が武器でしたね。

―浦和時代と鳥栖時代で土地柄やチームの環境など大きく変わりましたか?

松田氏:環境面は大変でしたね。鳥栖は決まった練習場もなくて転々としていましたし、練習着なども自分で洗濯していました。また、当時の鳥栖は治安が悪く、自転車を買ってからすぐに盗まれてしまったこともありました。

―8年間在籍したサガン鳥栖の魅力を教えてください。

松田氏:浦和もそうでしたが、鳥栖もファン・サポーターが熱かったですね。また、浦和に比べてクラブの規模は大きくないですが、その分距離も近くてファン・サポーターを身近に感じることができました。また、ホームスタジアムがサッカー専用の素晴らしいスタジアムであることも魅力ですね。

―プロ10年目の2002年に現役を引退されましたが、引退を決断した理由を教えてください。

松田氏:引退する前年のシーズンに左ひざの大けがをして、約半年間離脱しました。それまでは引退を考えたことはありませんでしたが、その翌年に鳥栖の新監督が副島博志さんになるという話を聞きました。評判の良い監督だったので、来年10年目を迎える状況で、その監督の下で「自分が試合に出場できるかチャレンジしたい」と思いました。そこで10年目の年を最後に引退しようと決めました。

―現役引退を決断されてから、引退後のイメージはありましたか?

松田氏:具体的に「こんな仕事がしたい」というのは無かったのですが、社長になりたいと思っていました。私は人と接することが得意ではなかったので、雇われて働くのは向いていないと思い、自分で事業を起こそうと考えていました。

整骨院を開業

―そこから接骨院の先生(トレーナー)を目指すようになったきっかけは何ですか?

松田氏:現役時代に怪我をしてトレーナーにお世話になった経験も大きかったですが、本当はインテリアデザイナーになりたかったんです。ただ、サッカーとあまりにかけ離れていて、難しいだろうと思っていました。そこで、色んな方に相談したところ、トレーナーの方から「それなら柔道整復師の勉強をして接骨院を開くのはどうだ?」と勧められたのがきっかけです。それでプロ10年目の時には選手をやりながら専門学校に通っていました。

―知識が全くない状態から医療関係の勉強をするのは相当な苦労があったのではないでしょうか?

松田氏:相当大変でしたね。最初は上腕二頭筋の漢字も書けなかったくらいです(笑)頭の良い人に勉強の仕方を聞いてなんとかやっていましたね。

―専門学校卒業後に接骨院などで経験を積まれ、2010年に「わらびFit整骨院」を開業されますが、蕨市で開業された理由は何ですか?

松田氏:蕨市に縁があったわけではないですね。ただ、浦和レッズに在籍していたので「元浦和レッズの選手」という肩書に頼りたくなかったというのはありましたね。
―今は現役Jリーガーや格闘家などアスリートが多く来院されているようですが、いつ頃からアスリートが多く来ているのですか?

松田氏:当時は一般の患者さんばかりで、サッカーやスポーツから少し距離を置いていたのですが、数年前にビーチサッカーに関わるようになって以来、サッカーに関わる楽しさを知りました。そんな中、コロナが日本に入ってきたのもあって、黒マットを引いて少しトレーニングできる場所を作りました。それから来院した選手から「トレーニングできるなら来たい」という声が多く、筋トレ器具も購入し、人工芝を敷いてトレーニングできるようにしました。それが1年前くらいからですね。そこから選手の紹介で徐々にアスリートが増えていきました。

―松田さんが思う、整骨院を経営される上で大切なことを教えてください。

松田氏:私は治療技術、コミュニケーション力、経営力の3つの柱が大切だと考えています。治療技術があっても、コミュニケーション力や経営力がないと経営し続けることはできないですし、治療技術があることはマストですが、それだけではダメですね。

―最近ではプロアスリートだけでなく、小・中学生などのアマチュア年代の子ども達にもパーソナルトレーニングをしているのですね。

松田氏:昔からの患者さんでプロ選手になった子がいたのですが、自分がプロを経験しているのでアドバイスしていました。ただ、整骨院だったので、ボールが使えるトレーニングができるわけではなく、ケガをしてきても実際にボールを蹴ってみてどうなるか分からない状況でした。「それならここでボールを蹴れるようにすれば良い」と考えたのがきっかけですね。

―現在は蕨と東川口の2店舗で経営されていますが、今後新店舗のオープン予定などはありますか?

松田氏:埼玉に限らず、色んなところでオープンしてほしいというお言葉を頂くのですが、スタッフが満足して、気持ちよく仕事ができる場所でやりたいと思っているので、そこは見極めたいと思っています。店舗を増やせば当然スタッフも必要になりますしね。私は、私の下で働くというより一緒に仕事をする仲間を集めたいので、その仲間が気持ちよく仕事ができる場所で良い場所があれば、そこでオープンしたいです。

―セカンドキャリアで苦労する選手、ビジネスなどで成功する選手もいますが、Jリーガーが引退後に苦労しないために必要なことは何だと思いますか?

松田氏:必要なのはコミュニケーション能力と、プライドを持ち続けないことですね。社会に出て一人では生きていけないので、コミュニケーション能力は必須ですよね。そして、人とコミュニケーションを取り続ける中で、元Jリーガーとしてのプライドを持ち続けないことも大切だと思っています。

辻本拳也

著者プロフィール 辻本拳也

一般人社団法人クレバリ代表理事。 大学卒業後の2018年4月にサッカースクールを開校し、代表に就任。 20年2月に一般人社団法人化する。サッカースクールを運営する傍ら、ライターとして、 複数のスポーツメディアで執筆している。 これまでに、元Jリーガーのインタビューやダノンネーションズカップなど、 育成年代の大会やイベントを中心に取材してきた。