アイスショー「スターズ・オン・アイス」に出演するために日本で滞在中だった9日に更新した自身のインスタグラムには、幼少期の頃などの写真を添えて「私はスケートから引退することを発表します」と切り出し「5歳でスケートを始めてからの11年間は本当に凄まじいものだった。良いことも悪いこともたくさんあったが、友達がたくさんできたし、これからの人生に残る良い思い出もたくさんある。正直、これだけ多くのことを達成できると思っていなかった。とても幸せで満足している。スケートでの目標が達成できた」とつづり、完全燃焼を強調した。そして「これからは次の人生に進みたいと考えている」とし、「家族や友人、そして勉強のためにより多くの時間を費やしたい」と今後へのビジョンを書き込んだ。そこには競技者への未練はなく、第2のキャリアへの前向きな思いが感じ取れた。

 リュウはまさに天才だった。ジュニアだった2019年1月の全米選手権では、フリーでトリプルアクセルを2度成功させる圧巻の演技を見せつけ、前年女王で平昌冬季五輪代表のブレイディ・テネルを上回る得点をマークし、史上最年少となる13歳で頂点に。一躍、22年北京冬季五輪への期待の新星として、米国だけにとどまらずに世界で大きな注目を集める存在となった。その後も勢いは止まることなく、主要国際大会デビューとなった19年8月のジュニア・グランプリ(GP)シリーズ第2戦、米国大会(レークプラシッド)では、ショートプログラム(SP)で首位に立つと、フリーでは冒頭で3回転半―2回転トーループ、さらに米国女子で初めて4回転ルッツを成功。ジュニアGPシリーズでは、紀平梨花(トヨタ自動車)が制した16年9月のスロベニア大会を最後に続いたロシア勢の連勝を20で止める好成績にも浮かれることなく「今季初めての大きな試合でいい経験になった」と初々しく喜びを語った。4回転ジャンパーは女子では安藤美姫が最初で、ロシア勢を中心に一握り。それについても「とても素晴らしいこと」としながら「とらわれすぎないようにしたい」と冷静に話す姿は実にクレバーな選手に映った。

 19年12月のジュニアGPファイナルでは、北京五輪期間中にドーピング問題が持ち上がったカミラ・ワリエワ(ロシア)とハイレベルな争いを演じて2位で銀メダルを獲得した。しかし、その後は、彼女が語る「悪いこと」なのか、冬の時代が訪れる。身長が大きく伸びたことにけがも重なり、得意のジャンプは精彩を欠いた。21年1月の全米では3連覇を逃して4位に終わるなど、成績は低迷した。トリプルアクセルも4回転も跳べなくなり、短期間でコーチを何度も変更する姿は悪循環に陥っているように見えた。だが、そこには何としても北京冬季五輪にたどり着きたい執念があった。

 リュウのルーツは中国にある。海外メディアによると、四川省出身の父親は1989年に学生らの民主化要求デモを、中国当局が武力弾圧した「天安門事件」に参加。その後、米国に亡命し、カリフォルニア州のベイエリアで弁護士となったという。リュウ自身は卵子提供による代理母との間に生まれ、5人きょうだいの長女としてシングルファーザーで育てられた。フィギュアを始めたきっかけは、その父親と一緒にテレビで見たミシェル・クワン(米国)。98年長野五輪銀メダル、02年ソルトレークシティー五輪銅メダルで世界選手権を5度制した国民的スケーターに魅了され、アイスリンクに足を運んだ。そして11年後、念願の五輪出場を決めると、米国メディアの取材に対し「ここはまだ父の祖国であり、私が再び中国に行けることを父はとても喜んでいる」と思いを口にした。フリーでは回転不足でダブルアクセルと判定されたものの、代名詞でもあるトリプルアクセルに挑戦。その後はスピン、ステップとも最高難度のレベル4をそろえる会心の内容で7位入賞を果たした。

 そしてシーズン締めくくりとなる世界選手権。SP5位で迎えたフリーでチャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」を躍動感たっぷりに演じきると、紅潮させたほおを両手で覆い、感極まって肩をふるわせた。このときにはすでに引退を決断していたのだろうか。坂本らとともに満面の笑みで表彰台に上がり、国旗を背負い、愛らしい表情で写真におさまる。今後、競技者としての彼女のスケートを見られないのは残念でならないが、早熟のスケーターが過ごした濃密な競技生活を振り返ると、新たな一歩を今はただ応援したい。


VictorySportsNews編集部