パンダ万歳 

 もし「菊と刀」が日本ならば、中国は「パンダと卓球」ということになる。いや、ならないかもしれないが、まあ、なるということで話を進めたい。
 1972年、日中国交正常化の際、両国の恒久的な平和・友好関係の象徴という名目で、カンカンとランランが中国政府から贈られ、日本中に一大パンダブームが巻き起こった。当時、中国は文化大革命の真っ最中である。
 国を上げて残忍で血腥い、殺伐とした権力闘争、集団リンチに明け暮れていた隣国の実情は、可愛らしいパンダにすっかり覆い隠され、日本の一般庶民の、隣国への好感度は急速に高まったという。
 その結果、1979年から昨年に終了するまでの40年以上もの間、日本は総額3兆6千億円余りの途上国援助(ODA)を行うことになった。誰もが憎めないであろう、愛らしい稀少動物を使った外交戦略の勝利である。その後、パンダは「平和大使」として、多くの国へ送り込まれることになった。かつては贈与もあったが、現在はほぼ有償のレンタルらしい。

ピンポン外交

 そして、パンダに並ぶもうひとつの武器、中国の外交戦略における卓球の果たした役割についても、もはや知る人は少ないかもしれない。名古屋の小さな出版社から2015年に刊行された『ピンポン外交の軌跡』(森武著/ゆいぽおと刊)は、70年代初頭、米中、日中の間で展開された「ピンポン外交」の一側面を当事者として体験した著者による、ある意味、稀少な記録である。
 文章自体は老人の自慢譚めいた風が強く、面白味に欠けるが、これまで知られていなかった意外な事実が随所に散りばめられており、それを知るだけでも一読の価値があるだろう。
 1972年2月、キッシンジャー大統領補佐官のお膳立てのもと、ニクソン大統領は電撃訪中を果たし、毛沢東主席とともに米中接近を世界に向けて宣言した。ピンポン外交とは、そこに至る米中の駆け引きに「卓球が大きな役割を果たした」と評価する人々の言であって、実際はピンポンのおかげで米中が接近したわけではない。
 もっと言えば、ピンポン外交とは米中、さらには日中友好のための「きっかけ」、「言い訳」、「前フリ」として、米中、日中間で周到に用意された演出だったと考えるほうが自然なのである。

敵の敵は、味方

 1971年の名古屋が、その「前フリ」の舞台になった。『ピンポン外交の軌跡』の著者、森武は当時、日本卓球協会の常任理事という立場で、いわばピンポン外交の裏方を務めた人物だ。本書に解説を寄せた元中日新聞・東京新聞論説委員の川村範行氏は、派手な賛辞を送っている。

〈1971年春、名古屋の世界卓球選手権大会に参加した中国チームとアメリカチームの交流をきっかけに、ベトナム戦争で敵対関係にあった中国(中華人民共和国)とアメリカが急接近し、翌年明けにニクソン大統領の訪中が実現する。併せて、72年秋には日本と中国の国交正常化にまで発展する。まさに小さなピンポン玉が大きな外交を動かしたのである。中国語で「小球転大球」。名古屋を舞台にしたスポーツ交流が国際政治を動かすきっかけとなった歴史的出来事として特筆される〉

 過大評価ではあるが、卓球が〈歴史的出来事〉の一端を担ったことは否定できないだろう。
 東西冷戦の最中、敵対関係にあった自由主義陣営の首領・米国と、ソ連に次ぐ共産主義陣営の要であった中国が手を結ぶには、それ相応の舞台装置が必要だった。
 当時中国はソ連とイデオロギーの方向性を巡って対立。1969年には国境線での武力衝突にまで発展した。米国もまた、最大の敵であるソ連を牽制するためにも中国との関係改善を急いでいた。いわば“敵の敵は味方”という理屈で両国は急接近したのである。

中編につづく

根本直樹

 1967年、群馬県生まれ。立教大学・文学部仏文科中退。『週刊宝石』記者を経て、フリーランス。編著『歌舞伎町案内人』(李小牧/角川文庫)を始め、在日中国人社会の裏側やヤクザ、社会の底辺に生きるアウトサイダーを追い続けている。著書に『妻への遺言』(河出書房新社)など。