“伝説”の始まり

 森武は、ピンポン外交における最大の“伝説”として、71年に名古屋で開催された世界卓球選手権の一場面に言及する。〈(もっとも大きく取り上げられた)話題は、アメリカのコーワン選手と荘則棟選手のプレゼント交換の場であった〉。
 大会中、コーワン選手が——間違えて——中国チームのバスに乗り込むというハプニングが起きた。中国選手は驚いたが、中国卓球界の英雄、荘則棟選手だけが咄嗟にコーワンに歩み寄ると、杭州製錦織をプレゼントし、歓迎の意を表した。
 これにコーワンは感動し、その後、名古屋の繁華街・栄に赴くと、「Nature call me」とプリントされたTシャツを買って、お返ししたのだという。当時、中国選手は米国選手に挨拶もしてはいけないと厳命されていたというから、あまりにも出来すぎた話に思える。しかし、この美談はメディアで大々的に報じられた。
 これが契機となり、中国は米国チームの招聘を決め、その後のニクソン訪中に繋がっていく。つまり「ピンポン外交」伝説の始まりだ。
 本書にはこの他にも、森氏をはじめとする日本卓球陣の中国チーム招聘を巡る苦労話などが綴られているが、私が書きたいのは、米国選手にプレゼントを送った荘則棟のことだ。世界卓球選手権大会のシングルスで、1961年から三連覇を達成した中国卓球界のレジェンドである。

悲劇の英雄

 荘則棟の名を目にしたとき、私はぴんと来た。20年ほど前に懇意にしていた、都内で一大違法中国エステチェーンを築き上げた北京出身の社長が、荘則棟について熱く語っていたのを思い出したからだ。

「彼の栄光と転落のストーリーは、中国という国の体質そのものを表している。国家に持ち上げられた挙げ句、最後は無惨に放逐された悲劇の男だよ」

 社長は荘と自分の境遇を重ね合わせ、大粒の涙を流した。社長には天安門事件後、在日中国人の有志とともに反体制活動をしていた過去があった。
 先に記した世界卓球選手権大会の後、荘はピンポン外交の立役者として30代の若さで国家体育総局の局長(大臣)に抜擢されたが、中国共産党内の権力闘争に巻き込まれ、文革を主導した江青ら4人組の失脚と同時に逮捕、投獄されてしまう。

「四人組側と見なされ、粛清されたんだよ。日本で言えば、国民的英雄の長嶋茂雄が刑務所送りになったようなもの。国中に大きな衝撃が走ったのを覚えている」
 社長はそう言った。
 
 1980年に、ようやく卓球コーチとして復帰を許された荘だが、党と国家に翻弄される人生はまだまだ続く。卓球大会で出会った日本人女性の通訳と交際をはじめるが、当局からなかなか許可がおりなかった。ところが87年、当時の最高実力者だった鄧小平の鶴の一声で一転して婚姻が認められると、荘は自伝『鄧小平批准我們結婚』(鄧小平が結婚を認めてくれた)を出版した。無論それは本人の意思などではない。中国共産党の国内向けの宣伝に利用されたのである。後年は癌を患い、闘病の末、2013年ついに息絶えた。享年72。最期まで、中国という国に翻弄された人生だった。
 しかしこうした例は荘即棟のような有名人に限った話ではない。私が出会った元卓球選手の密入国者も同じだ。


正義の闘争

 パンダと同様、卓球(ピンポン)を外交戦略のひとつと捉えていた中国共産党にとって、卓球は純然たるスポーツではなく宣伝工作の具であり、そこで戦う選手たちは党の下僕に過ぎなかった。
 中国卓球界の英雄、荘則棟は当時の卓球界で最高峰の技術とスポーツマンシップを持つ男と評されていたが、そのアスリートとしての精神、信念、態度、誇りは、“偉大な”党の前では呆気なく瓦解した。
 荘は名古屋大会において、当時敵対関係にあったカンボジアの選手との対戦を拒否し、王者復活の道を自ら閉ざしたのである。この決断に、周恩来首相の意向を見出す記述は『ピンポン外交の軌跡』にも見られる。
 こうした中国の方針にはきわめて強い一貫性があり、決してブレることがなかった。そういう意味では「嘘がない」とも言えた。71年の名古屋大会で、中国チームが掲げた方針は以下のふたつだ。

 友好第一、競技第二。
 反米愛国の正義の闘争。

ルル

 映画『マトリックス』を観た記憶があるから、あの男とはじめて会ったのは1999年のことだったはずだ。当時週刊誌の記者をしていた私は、JR高田馬場駅近くに住んでいた中国人デートクラブ嬢のルルと付き合っており、自宅にはほぼ帰らず、半ば同棲のような暮らしを送っていた。出会った当初、彼女は30歳だと言っていたが、実際は42歳で、それを後から知らされた私はひどく憤慨したのを覚えている。
 真冬のある日、ルルと上海式すっぽんの姿煮を食べていたとき、突然、こう言われた。
「あなた、今日の夜から、男と寝る。いいね?」
「は? 俺、そっちじゃないから」
「ばか、違う。私の男友達、今日から、ここ泊まるよ」
 当時の中国は成長著しいとは言ってもまだまだ貧しく、日中の貨幣価値には雲泥の差があった。押し寄せる留学生は半分カネ目当て、留学以外の女は偽装結婚、男は密入国や偽造パスポートで来日する者が大勢いた。目的は異文化交流などでは当然なく、日本の円、のみである。
 ルルは歌舞伎町の売春クラブで夜ごと身体を売り、故郷の上海に残した家族に毎月30万円以上のカネを地下銀行から送金。わずか4年で実家近くにマンションを購入した。
 そんな彼女の男友達が来日し、部屋を借りるまでの間、ルルの部屋に居候するのだという。どうせヤバい奴だろう。そう思ったが、本当にそうだった。

洞窟のような眼をした男

 夜7時過ぎ、ルルが出勤した後、部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けた刹那、背筋が凍りそうになったのを覚えている。ヤクザのようなわかりやすい見た目の怖さではない。身長は185センチぐらいで、ガリガリに痩せ細り、頬は骸骨のようだった。ボロボロの黒いコートを羽織り、すってんてんのスラックスと安っぽい革靴という出で立ちである。
 彼の顔を下から覗き込むと、眼窩が異様にくぼみ、まるで洞窟のような暗澹たる眼でこちらを見つめてきた。「こいつ、まじで殺し屋じゃないのか」。本気でそう思った。
 男は小さく頷いただけで言葉も発しない。そして部屋に上がり込むと、ルルが用意しておいた上海料理の惣菜を一心不乱に食べ、終わると私に「寝る、どこ?」と聞いてきた。私は自分の仕事部屋に案内し、私の仮眠用ソファの横にルルが敷いた布団を指差すと、すぐさま横になってしまった。
 明け方、ルルが仕事から戻ると、私は詰問した。
「あいつ、何者だよ。不気味すぎるだろ」
「中国、仕事ない。だから船で来たよ」
「船? 密入国かよ」
「そうだよ。いっぱいいるよ」
 こうして、上海からやって来た四十絡みの不気味な密入国者と同衾する生活がしばらく続くことになった。

後編につづく

根本直樹

 1967年、群馬県生まれ。立教大学・文学部仏文科中退。『週刊宝石』記者を経て、フリーランス。編著『歌舞伎町案内人』(李小牧/角川文庫)を始め、在日中国人社会の裏側やヤクザ、社会の底辺に生きるアウトサイダーを追い続けている。著書に『妻への遺言』(河出書房新社)など。