パチ屋の天井

 男はほぼ日本語ができず、こちらから「ニーハオ」などとお気楽に声をかけても、まったく返してこなかった。部屋にいるときはほとんど布団に横になって中国産のタバコを吸い、時おり乾いた嫌な咳をしたかと思うと、ぜぇぜぇと荒い息遣いが1、2時間も続いた。素人目にも明らかに病気持ちだった。
 暗黒の眼をした男と黙ったまま、一日中、同じ部屋で過ごすのは息が詰まった。なんとかコミュニケーションをはかろうと、筆談で「酒、飲むか」とか「外で飯でも食わないか」などと誘ってみたが、まったく乗ってこない。特に不用意な外出は徹底的に避けているように見受けられた。
 ただ、名前を尋ねると「陳」と紙に書いてきた。日本で言えば、鈴木とか佐藤といった、どこにでもいる苗字である。そして毎晩9時すぎになると黙って外出し、深夜から翌朝の5時位に部屋に戻ると、すぐに布団を被って寝てしまうのだ。
 のちにルルから聞いた話によると、陳はパチンコの「裏ロム師」として、在日中国系のヤクザに使われていたのだという。パチンコ屋の天井に忍び込み、閉店するまでじっと待つ。そして深夜、誰もいなくなった店内に降りてきて、特定のパチンコ台に「裏ロム」と呼ばれる、一定の行程を踏むことで大当たりを故意に出せる機器を取り付け、こっそりと天井ルートで外に出る。翌日、打ち子と呼ばれる人間がその台で打ち、大金を抜くという、当時流行った闇の商売だった。

ピンポン

 いつ見ても寒々しい、暗澹たる表情の陳に、私は次第に憐憫の情を覚え、別段仲良くなりたいとは思わなかったが、少しくらいは楽しみを味わわせ、リフレッシュさせてやりたいという気持ちが募っていった。
 陳がいる間、ルルは寝室に私を入れようとしなかった。タバコの煙が充満する6畳の部屋で、私は4カ月ほど、洞窟の眼をした男とともに寝た。
 ある日、私は陳に筆談で尋ねた。「仕事、休みはないのか」と。すると陳は、数日後のある曜日を紙に書いてきた。私は冷蔵庫からビールを取り出して陳にやり、紙に書いた。「その日、乒乓球(卓球)に行こうよ」。
 中国といえば卓球王国というのは今も当時も同じで、卓球なら一緒に楽しめるのではないかと思ったのだ。陳の顔が珍しくぱっと明るくなったのが見て取れた。そして「私は中国で卓球選手でした」という意味の中国語を紙に書き、私に差し出してきた。ルルに確認すると、高校時代に上海のある地域で準優勝した実績があるとのことだった。「約束な」。そう書き返して、私は仕事に出かけた。
 まあ、来ないだろうな、と半信半疑でいたが、意外にも陳は乗り気だった。外国人登録証を持たない陳を気遣って、通りに出ると私はすぐにタクシーを拾い、陳を座席に押し込んだ。
 当時、新宿歌舞伎町区役所通り沿いに立つ風林会館の4階にはビリヤード場があり、卓球台も併設されていた。私はよく酔っ払った際、飲み仲間とそこでビリヤードか卓球をやっていた。そこに陳を連れて行ったのである。タクシーを降りると陳は周囲を鋭い眼で窺い、俯き、口元を手で覆いながら背を丸めて歩いた。

交流第一、競技第二

 卓球場に着くと、陳が「元卓球選手」であることがすぐにわかった。私は親指と人差し指でグリップを挟んで持つ、初心者用のペンホルダー型のラケットを選んだが、彼は当たり前のように両面にラバーが貼られたシェークハンド型を選択。
 とりあえず軽く打ち合ってみたところ、フォームも、ラケット使いもすべてが玄人のそれだった。陳は私の実力をすぐに感知したようで、私に合わせ、ゆっくりと正確に、打ち返しやすい玉を返してきた。
 たまには若い女の匂いでも嗅ぎたいだろうと、私は知り合いの日本人の女の子を呼び出していた。彼女が来ると、3人で交代で試合をすることにした。負けるのはわかっていたが、私は紙に「真剣勝負」と書いて陳に見せた。
 しかし、ゲームが始まると、陳はギリギリまでリードを保ったうえで、最後の最後でミスを連発した。明らかに「わざと」である。私は紙に「本気でやれよ」と2、3回書いて渡したが、絶対に最後は陳が負けた。女の子と一緒に「わざとでしょ」と騒ぎ、再び紙に「なんでわざと負ける」と書いたら、陳は嬉しそうに笑った。出会って3カ月半、はじめて見る笑顔だった。陳の卓球にはまさに「交流第一、競技第二」の精神が宿っていた。
 真冬の東京で、陳はいつも中国から持ってきたラクダの上下を着ていた。私はルルを介して、「そのラクダの下着、レトロでかっこいい」みたいなことをよく言っていたものだった。
 一緒に卓球をした半月後、突然、陳は姿を消した。何も言わずに帰国してしまったのだ。
 それから1カ月後、ルルのマンションに私宛の荷物が届いた。上等なラクダの上下が入っていた。そしてその半年ほど後、ルルから陳が病気で死んだと聞かされた。テレビで日本人と中国人の卓球の試合を目にするたびに私は陳の、あの笑顔を思い出す。

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根本直樹

 1967年、群馬県生まれ。立教大学・文学部仏文科中退。『週刊宝石』記者を経て、フリーランス。編著『歌舞伎町案内人』(李小牧/角川文庫)を始め、在日中国人社会の裏側やヤクザ、社会の底辺に生きるアウトサイダーを追い続けている。著書に『妻への遺言』(河出書房新社)など。