兵庫県尼崎市出身の坂井がボクシング強国メキシコに渡ったのは、高校を卒業したあとのことだ。当時19歳。もともと3ヵ月だけのボクシング修行感覚だったが、そのまま現地でプロデビューし、10年近くもメキシコに滞在していた。

 メキシコシティでは名マネジャー、ナチョ・ベリスタインのロマンサジムに通った。下宿はあまり治安のよくない地区にあったが、かの国でボクサーは一目置かれる存在で、その点坂井は暮らしやすかったという。

 例にもれず4回戦ボクサーからスタートして、ファイトマネーの最低額は2万円。最初の半年間に5試合こなし、5試合目は5万円ほどにアップしていた。

 連日のスパーリング練習でダメージをため込まないように、潰されないようにと率先してディフェンスに取り組んだ。ガードの使い方やスタミナの浪費を抑える最小限の動き等、現在の坂井のボクシングスタイルはここで作られた。

 メキシコで暮らした間に36戦して23勝(13KO)11敗2分。26試合をメキシコで、のみならずアメリカで9戦、そしてニカラグアで1戦戦った。WBCユース・スーパーライト級王者になった経験もある。

主戦場はメキシコからアメリカへ

 メキシコで活動し、本場アメリカのプロモーションから声がかかるようになったことは坂井のひとつの成功といえる。2017年8月には、ラスベガスでアシュリー・ティオフェン(イギリス)を8回判定で破った。これは坂井の長い拳歴でも忘れられない1勝になった。相手のティオフェンは2戦前に世界タイトルマッチに挑んだばかりの格上で、試合はフロイド・メイウェザーが主宰するプロモーションのイベントだった。坂井のファイトマネーは1万ドルだったという。

 しかし本場ゆえアメリカのリングは厳しく、勝ちから見放される時期が続いた。メキシコ国内に比べて対戦相手のレベルが上がるうえに、Bサイド、つまり引き立て役の立場で臨むことが常である。アメリカで4連敗を喫した坂井はトレーニング環境を整えるためにも、ここで帰国を決断した。2019年の暮れ、29歳になる直前のことだ。

ステップアップのための帰国

 メキシコのボクシング・ブームが以前ほどでなくなっていたことも関係しただろう。坂井がプロになった頃のメキシコは毎週のようにテレビ中継があり、二桁ものチャンピオンを抱えた時期があった。ブームというよりバブルの様相を呈したものだが、やがてその熱も冷めてしまった。坂井の属する中量級のスパーリング・パートナーは多くはなかった。

 かくして坂井は日本に戻った。いくつかジムを見て回って横浜光ジムに決めたのは、ジムの雰囲気が気に入ったことに加え、海外とのコネクションを期待できるためだ。というのも坂井の階級(スーパーライト級、ウェルター級)はアメリカに市場がある。世界を目指すためにはいずれまたアメリカで戦う必要があると坂井は考えているのだ。

 2020年8月、プロ37戦目で初めて母国のリングに立った坂井は日本ランカーに判定勝ち。小原佳太(三迫)、豊嶋亮太(帝拳)とタイトルマッチ挑戦で敗れたものの、今年4月、三度目の挑戦で決定戦に勝って日本ウェルター級チャンピオンの座に就いた。

 さる9月の初防衛戦は、元WBOアジアパシフィックのミドル級王者、能嶋宏弥(薬師寺)の挑戦を10回判定勝ちで退けた。2階級重いミドル級から下げてきた能嶋に大差をつけたが、坂井の口からは反省の弁が続いた。

 中量級の本場で戦った経験から、とくにこのクラスではフィジカル面の強靭さが不可欠だと知ったという。坂井がかつてしのぎを削ったレベルよりもさらに上、頂点の超一流にいるのが、テレンス・クロフォード(アメリカ)を筆頭にするグレート・ファイターたち。世界を目指す、イコール、そういった選手が相手になるということなのだから、国内で勝つだけで満足していられないというところか。

画像:坂井祥紀Instagramより

VictorySportsNews編集部