キリスト教徒のカレン族
1998年、クロエはこの家で生を享けた。「その前に生まれた長男は死んだので、最初の子供になりました」とタンアウンは言う。タンアウンの妻の両親も、その母の両親もまたこの村で暮らしていた。それ以前のことは分からないが、すくなくとも200年近く前から、彼らの血族がこの村で暮らしていたことは事実であるように思われた。それでも彼らは、後から来た人々だったらしい。
「この近くには、私たちよりも先に住んでいた仏教徒のカレン族がいるので、森の中には住めません。この場所になら住めると言われたそうです。昔から使っている畑からも遠い場所ですが、仕方ありませんね」
この経緯は、クロエの家族を含め、この村のカレン族たちの多くがキリスト教徒であるという事情からも窺えるだろう。キリスト教は、イギリスの植民地主義にともない、18世紀末からミャンマーを冒し始めた。
起点そのものを振り返れば、キリスト教徒であるというクロエの一族は、それ以降に、この場所へやって来たのだろう。「先祖から継いだ畑で、米や果物を作っています。畑作できない時期は、山で木材を切り出して、町へ売りにいきます」(タンアウン)と言うので、彼に1枚の写真を見せた。山登りをしている最中に見かけた密林の中の看板。ビルマ語で書かれており、取材班には読めない。
「LEADの権利を得たと書いてあります」
やはり、そうだった。おそらく、看板に書かれているのは鉛鉱石の採掘許可だ。
「この家や畑が、あなたたち血族の所有物であるという書類を持っていますか?」
そう尋ねると、タンアウンやクロエの両親は否定した。後日、ヤンゴンでビルマ族の協力者に写真を見せると、詳細を調べてくれた。
「これは中国ですね。鉛鉱石の採掘権を得たと書いてあります。ミャンマーは、外国人が単独で採掘権を得ることはできないので、形式上、ミャンマー人を立てます。この看板でも、最高責任者はミャンマー人の名前ですが、マネジャーとして書かれているのは、シャン州で羽振りを利かせている中国人実業家の名前です」
残念ながら、彼らの村も彼らの畑も、法的には彼らのものではなく、別の誰かの所有物だった。
「採掘が許可された期間は3年と書かれています。この村は立ち退きさせられる可能性が高いですね」
もし、あの土地を失ったなら、クロエの両親はどうするだろうか。彼女と4人の妹弟のうちふたりを、彼らはすでに難民キャンプへ捨てている。あるいはクロエと同じように、彼ら自身も宗旨替えをするのだろうか。
この家と村から放り出されたとき、クロエは9歳だった。
カンチャナブリ
「祖父が出稼ぎにいくので、私もついていきました」
なぜ両親のもとを離れ、村から出たのかと尋ねると、クロエ自身はそう言う。他方、クロエの母は、別の事情を口にした。
「母(クロエの祖母)が正体不明の病にかかり、ダウェイの町医者では原因が分かりませんでした。そんなとき、祖父がカンチャナブリで仕事を見つけました。この村では、ほとんど現金収入がないので、クロエをきちんとした環境で育てることは難しい。それで、現金収入の目処が立った祖父母と一緒に暮らした方が、彼女のためにも良いと思ったのです」
クロエを連れてタイへ越境した祖父、タンアウンの語り口はまた違う。
「ツテをたどって、まともな医者に診てもらうと、妻の病はガンだと言われました。でもわたしには、妻のガンを治療するために必要なお金はありません。そんなとき、知り合いから『タイ側の難民キャンプまで行けば、無料で治療をしてもらえる』と聞き、「人道支援団体」のイギリス人を紹介されました。タイまで行けば、日雇いで現金収入を得られるとも聞いたので、この村を出ることにしたのです」
〈難民〉なら医療を受けられる
妻のガンを無料で治療するために〈難民〉になる――そこまでは分かるが、なぜ孫のクロエを連れて行かねばならなかったのか。
「この家には現金がありません。畑や山から穫れるものでは、息子と娘(クロエの両親)の口を糊するにも不十分でした。私がクロエを連れていくしかなかったのです」
こうして、タンアウンは妻とクロエを連れ、難民になるために国境を越えた。2007年のことだ(折々の彼らの言葉をそのまま信じると、クロエの年齢には矛盾が生じる)。この年の夏、ミャンマーの軍事政権はガソリンを含む燃料の公定価格を突如5倍に値上げし、ヤンゴンを中心に僧侶たちによる至上空前の抗議活動が行われた。
その最中、反政府デモを取材していた長井健司をはじめとする9名のメディア関係者、反政府活動家らが射殺される事件が起こったことは、日本でもよく知られている。クロエの実家の暮らしが厳しくなったのは、燃料の公定価格の値上げのせいだったのか。
タンアウンは否定した。
「燃料代が値上げされ、大きな都市でデモが起きていることは知っていましたが、私たちが買うガソリンの値段はそれほど変わっていませんでした。ずっと前から、公定価格でガソリンを買えたのは裕福な人や都会の人、軍人、政府関係者などだけです。彼らが誰かに売り、それをまた誰かが誰かに売って、私たちが買います。このあたりでは、KNLA(カレン民族解放軍)が売っていました」