「下町ボブスレーで、オリンピックの金メダルを取る!」

 日本の技術力が集中する東京・大田区の工場主たちがジャマイカ選手とタッグを組んだ“日本版クール・ランニング”の存在をご存知だろうか。このほど韓国・平昌で開催されたW杯、その先の冬季五輪を目標に据えて目下奮闘中だ。

 約100社の町工場を束ねて国産マシンを製作するのは、“下町ボブスレー”プロジェクト推進委員会。2018年の平昌冬季五輪を目指すジャマイカ代表に2人乗りの新型そりを無償提供することを決定した彼らは、今後もテストを繰り返し、五輪本番用に改良を重ねていくという。

 ジャマイカ・ボブスレー連盟との調印後、同委員会の細貝淳一ゼネラルマネジャーらは安倍首相に報告。首相は「物づくりの底力が、町工場にあることを世界に示した。日本の技術の力を世界に発信する象徴になる」と、エールを送った。
しかし、そもそもなぜ下町の町工場が、ボブスレーに取り組むことになったのだろうか。

町工場の空洞化——疎遠になる近隣関係

「大田区が抱えている問題は、日本全体の産業空洞化と共に町工場が減っていること。隣が廃業するのは、自分の工場が衰退していく兆し。信頼関係がある工場がなくなれば、自社が受注できる案件が減る。また、区内でできなくなったためにやむなく塗装や検査を遠方の企業に発注すると、納期も延びてしまう。私が下町ボブスレー推進委員長になったのは、区のモノづくりの衰退を防ぐため。このプロジェクトで町工場同士の新たな連携が始まり、見た方や子供たちに『町工場はカッコイイ』と思ってもらえればしめたものです」。前出の細貝は、“下町ボブスレー”の目的をこのように明かす。

 長らく日本の工業を支えてきた大田区の町工場だが、近年は跡継ぎがなく廃業してしまった者も少なくない。工場を続けている者にとっても、問題は深刻だった。背景として、区内の中小企業同士の連携の弱体化がある。

 昔は玄関先が開いているような工場ばかりで、夕食時には醤油の貸し借りもできるような、昭和時代を絵に描いたような地域だった。「あの工具がないのでちょっと貸してもらえない?」と貸し借りしたり、仕事がないと図面を回し合ったりしていたという。

 親密な地域だったが、やがて、ほとんどの工場の扉が閉ざされ、隣が何をやっているのかさえわからなくなってしまった。「何やってるの?」と聞いても、下町の親父たちは口下手で説明もままならない。近くの工場なのに接点がなくなり、深く立ち入れない。いつのまにか、かつてのオープンな環境が失われてしまっていた。
「何か打開策はないか?」、「何とかならないものか」。それが、多くの工場主の共通の思いだった。

 そんな工場主たちにとって、ボブスレープロジェクトは格好の目標に映った。彼らの目的は、オリンピックという最高の舞台で、同区のモノづくりの力を世界中にアピールすること。大きな目標に向かって協力することで、工場同士の連携を復活させることもできる。

 震災後の冬に初会合が開催され、日本五輪代表チームへの採用を目指して開発をスタートさせた。目論見どおり、これまでプロジェクトに関わった会社は100社以上、マシンへパーツを提供するなどの貢献は、同区の企業が95%超にのぼる。

衰退・減少する町工場を活性化

 きっかけはこうだった。
街の産業がどんどん衰退していく。この地域の技術力を広く世間に知らしめたい。そんな中、寄り合いでいつものように交わされる会話があった。「一番のPRはなんだろう」「オリンピックで使われる道具を皆で作ったら、最大のPRになる」。「オリンピックを見て、子どもたちに『あれは俺が作った〇〇だ』と、言いたい」。

 では、何を。

 実は細貝は2008~09年頃にアーチェリーに取り組みたいと考えていた。大手メーカーが撤退したことを知り、皆で作れないかと模索したが、クリアできないハードルが出てきて、単純にはいかないと頓挫した経緯がある。

 
2011年東日本大震災の後、大田区の工場も震災で仕事が激減した。その際に、大田区の職員の一人が、「こういう時こそ地元の連携が大事。細貝さん、ボブスレーでも作って、町おこししませんか?」と、持ち掛けてきたという。

 地元の町工場の技術力を生かして開発、製造するには、何よりもソリが最適だった。ボブスレーのソリは、他競技の用具以上に、同区の町工場が得意とする金属加工の技術を生かすことができる。

 当時、大田区にはあった会社は約3500社。「こんな面白いことをやるなら、まぁ誰か協力してくれるよなと思った。もしダメでも日本中の製造業の知り合いがいるから、オールジャパンでやればいいんだ」(細貝)と、腰を上げた。

 推進委員会の副委員長である西村修も、スタート当時をこう振り返りながら笑う。
「会合後、担当者が集まった席に設計図面を200枚ぐらい広げて、『作れるものを持って行って』と言うと、バババッとみんな取っていった。『ただし、皆さん、製作はタダでお願いします!』てな感じで始まりました」

挫折を繰り返しながらも
「あきらめない!」

©下町ボブスレーネットワークプロジェクト推進委員会

 東京は地価も人件費も高いため、大規模な工場は少ない。しかし、それぞれの町工場には非常に高精度な力がある。部品作りは、切削、塗装、検査など、様々な専門的技術を持つ企業が連携して行う場合が多い。同区にはこうした企業が密集しているため、プロジェクト発足以降「今から持ってくから急いで削って!」「おう!」と連携を活かした製作によって納期の短縮が実現した。

 連携が復活したことで、お互いの仕事内容がわかるようになると、「この部品ならこの精度が必要だよな」と互いに気配りができるようになり、団結力も高まった。


 だが、一筋縄にはいかない。2013年11月には日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟から、ソチ五輪での不採用通告が届いた。技術的な改良要望が出され対応を進めたが、間に合わなかったという。プロジェクトチームはその後、要望どおりに改良したソリを作り上げて再交渉したが、2015年11月、連盟は改めて平昌五輪での不採用を決定、代わりにドイツ製の採用が決まった。

「目の前が、真っ暗になった」(細貝)が、諦めなかった。
すると、23年前に公開された映画『クール・ランニング』のモデルとして知られるジャマイカ代表チームから、下町ボブスレーに声がかかったのだ。さっそく滑走テストを重ね、ジャマイカ側の要望に丁寧に応えた結果、五輪に向けて採用に至った。

 
目指すは今秋からの平昌冬季五輪世界最終予選。下町ボブスレーチームはジャマイカの選手たちとタッグを組んで、何としてもと、予選突破を目指す。

 細貝も西村も、町工場の気のいい親父たちだが、そこには日本のモノづくりの底力と団結力がある。
戦いは、まだ始まったばかりだ。
(文中敬称略)


神津伸子

ジャーナリスト。慶應義塾大学文学部卒業。シャープ(株)東京広報室を経て、産経新聞入社。社会部、文化部取材記者として活動。カナダ・トロントに移り住み、フリーランスとして独立。帰国後の著書に『命のアサガオ 永遠に』(晶文社)『氷上の闘う女神たち 女子アイスホッケー日本代表の軌跡』(双葉社)。『もうひとつの僕の生きる道』(角川書店)企画・編集。AERA『女子アイスホッケー・スマイルJAPAN』『SAYONARA国立競技場』など執筆多数。