文=いとうやまね
氷上のセレナーデ/EX『Notte stellata(星降る夜)』
©Getty Images 青く照らされた氷上にスポットがあたると、羽生は穏やかな表情で、ゆっくりと“月あかり”に身を委ねる。背中の大きく開いた衣装の白に、煌めくストーンと軽やかな羽根が揺れている。
湖面に映る月をごらん
星々が僕らに瞬いている
魔法のような夜に
君へのセレナーデを歌うよ
2011年に結成された、イタリアの人気テノール・グループIl Volo (イル・ヴォーロ)は、その歌唱力と若さでセンセーショナルを引き起こした。この『Notte Stellata』(ノッテ・ステッラータ)を録音した時には、メンバーの3人はまだ16歳と17歳の少年だったのだから。歌詞はロマンティックな告白である。愛する人の部屋の窓下で想いを奏でる……ロミオとジュリエットの昔から変わらない風景といえる。
詩中の「湖lago」は、愛を切々と歌い上げる自分自身で、「月luna」は、愛する君を指している。すなわち、湖面の月は「僕(湖)に抱かれた君(月)」をイメージしてもらいたい。さらに、「僕がどれほど愛しているか、君は知らない。僕の心には君しかいないのに」と続く。
大きく翼をひろげ、長い首を持て余すかのような羽生のスピンは、まさに優雅なオオハクチョウだ。これは偶然なのだが、オオハクチョウはフィンランドの国鳥である。フィンランドの1ユーロ硬貨の裏側には、湖の上を飛ぶ2羽の白鳥が描かれている。冬が終わり、春になるとここヘルシンキにも南の国から白鳥たちが群れになって戻ってくる。ちょうど日本とは逆になるかたちだ。羽生の生まれ育った仙台の七北田川(ななきたがわ)にも毎年たくさんの白鳥が飛来する。羽生も子供の頃から目にしていたはずだ。
両手を顔に這わせる振付がセクシーだ。これでもかというほどに美しいイナバウアーにはもはや言葉を失う。客席からは悲鳴にも似た歓声とため息が聞こえてくる。
サン=サーンスと白鳥
©Getty Images 原曲の作者であるサン=サーンスと、この「白鳥」という作品について少し触れておこう。カミーユ・サン=サーンスは19世紀半ばから後半にかけてに活躍したフランスの作曲家である。天才肌で、天文学や数学といった学問や、絵画にまで活動の幅を持っていた人物である。
「白鳥」が収められた『動物の謝肉祭』という組曲は、全14曲からなるもので、友人であるチェリストが主催する夜会用に作曲されたものだ。ごく個人的な目的であったのと、既存の曲や作曲家を揶揄するような嗜好で作られた作品が多々あったことから、本人が亡くなるまで世の中に出てこなかったという、いわくつきの作品である。
「白鳥」は、その後ロシア出身のバレエダンサー、ミハイル・フォーキンによって振付けられた『瀕死の白鳥』というバレエ作品の音楽として、世界に名を馳せることとなる。はじめから瀕死だったわけではないのだ。
愛の喜び
©Getty Images さて、後半に入ると徐々に恋する男は強気になってくる。「僕がどれほど愛しているか、君はもう知っているね」と、さっきとは正反対のことを言う。力強い大きな翼が、羽生の背中に見えるだろうか。渾身のハイドロブレーディングが、氷煙を切り裂く。幸福に満ちた美しい夜だ。
僕が君を愛しているのを
君は知っている
君はもう僕を愛している
終盤のステップ、そしてジャンプ、スピンは、愛の喜びに満ち溢れている。あなたはもう、羽生結弦を愛している。
羽生結弦が自らのスケート人生を投影したFS/『Hope & Legacy』
緑豊かなかの地に思いを馳せる。“杜(もり)の都”と呼ばれる仙台。かつて伊達政宗公が開いた美しい都には、遠く奥羽山脈から流れ込む川がいくつかある。羽生の生まれ育った町には、「七北田川(ななきたがわ)」が流れる。仙台平野を潤す河川の一つだ。ヘルシンキではフィンランドの壮大な自然をイメージしたという羽生。今季ラストとなる美しい調べに、母なる地を重ねてみたい。
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