文=後藤勝

FC東京に対する権田の特別な想い

 試合が終わり、マッシモ・フィッカデンティ監督の記者会見が始まろうかというとき、サガン鳥栖のGK権田修一がFC東京のファン・サポーターが待つ“相手側”のゴール裏へと挨拶に赴いた。有言実行の行動だった。

 権田にとって、FC東京は特別なクラブだ。彼は中学1年生だった2001年にFC東京の下部組織であるFC東京U-15に加入。その後、FC東京U-18、そしてFC東京のトップチームとステップアップし、15年間という月日を過ごしていた。そんな愛着のあるクラブを離れたのは、2016年のことだった。

 15年7月29日のJ1第5節・ベガルタ仙台戦を最後に、権田はオーバートレーニング症候群と診断され、まともにプレーをすることができなくなっていた。オーバートレーニングによる症状は多岐に渡り、不眠やうつに似たものまで含む。端的に言えば、心身が極度に疲労した状態だ。スポーツ選手としての危機に瀕していた権田は、その後、徐々に回復すると、日本代表MF本田圭佑がオーナーを務めるオーストリアのSVホルンへの期限付き移籍を選択する。

 そのニュースを聞き、安心した。日本のトップカテゴリーであるJ1に比べれば、オーストリアの3部リーグは心理的な圧力も少なく、養生しながらサッカーを通じて快復するかもしれないと思ったからだ。元気でいてくれればそれでいい。

 そもそも、欧州でプレーすることは権田の夢だった。「海外に行くのであればFC東京を優勝させてから欧州のクラブに移籍したい」というのが、彼の口癖だった。遠大な話ではあるが、たとえオーストリアの3部といえど、そこをとば口にステップアップして強国の2部や1部に辿りつくことも不可能ではない。

 FC東京を優勝させてからというかねてから思い描いていたストーリーとは異なり、自らの不調による偶然の渡欧だったが、結果的に権田は自身の夢に近づけた。16年12月31日までの期限付き移籍でホルンへ加入していた権田は、よりレベルの高いクラブへのステップアップを目指したが、17年以降に所属する新たなクラブを見つけられなかった。

欧州移籍から一転、鳥栖へフリートランスファー

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 この時点で権田の保有権は、FC東京が持っていた。このタイミングで帰国してFC東京に復帰することもできたし、本来はそれが筋である。だが、権田は欧州でのプレー続行にこだわり、1月末まで欧州での移籍先を模索することとなった。FC東京も権田の決断を理解し、より移籍しやすいようにと、その背中を後押しする意味もあり、契約を解除した。

 下部組織育ちの元日本代表GKを手放したFC東京は、2017シーズンを戦うために、強力なゴールキーパー陣を形成していく。鳥栖から林彰洋、J2のV・ファーレン長崎から大久保択生、青森山田高から廣末陸を獲得。また、FC東京の下部組織FC東京U-18から波多野豪を昇格させ、2017シーズンのチーム編成を終えた。

 FC東京と権田は、こうして別々の道を歩み出した。ところが、権田の移籍先は欧州の冬の移籍市場が閉まる1月31日を迎えても決まらなかった。権田はFC東京と契約を解除していたため、その後も欧州クラブに加入することはできた。しかし、シーズン中に一つの出場枠しかないGKの選手をこの時期に獲得するようなクラブなど、皆無に等しい。

 選手として高いレベルを保つためには、プレーする場が不可欠だ。ここで権田に、シーズン開幕を控える日本に戻るという選択肢が生まれた。しかし、古巣であるFC東京をはじめ、大半のJリーグクラブは編成を済ませている状態だった。唯一、権田を獲得できたのが、ある程度の資金力を持ち、GK林をFC東京に放出したばかりの鳥栖だった。皮肉にも、FC東京と鳥栖の間で、日本代表クラスのGKを交換する形になってしまった。

 これが問題だった。FC東京は欧州のクラブに移籍するという本人の望みのために契約を解除したのであって、同じJ1での競争相手となるクラブに塩を送るために自由契約の身分にしたのではない。当然、FC東京のファン、サポーターは怒った。せめて直接の移籍なら移籍金を手土産に残すこともできたが、一度契約を解除してからの、移籍金の伴わない「フリートランスファー」なのでFC東京には一銭も入らない。放出損だ。プロで活躍できるまでに育ててくれたクラブに、権田は何も残さず、鳥栖に鞍替えしたことになった。

 自由契約の身となり、FC東京に所属していない状態だから、どこのクラブに移籍しようが法的な問題はない。しかし、それでは筋が通らない。法さえ冒さなければいいというものではないだろう――FC東京のファン・サポーターの怒りは、もっともだった。

鳥栖の権田として、踏み出した第一歩

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 いつか再び日本代表に選ばれる、あるいは海外で活躍するためには、少なくともJリーグの水準でプレーを続けなければ、サッカー選手としての質を維持できない。たとえ裏切り者の烙印を押されようと、受け容れてくれる鳥栖に移籍する他はない。

 それが権田の決断だった。だからこそFC東京ファン、サポーターの怒りをもっともなことだと思い、受け止めた。権田は「自分が悪くない」などとはひとことも言わない。「自分がFC東京のサポーターだったら自分に怒っているだろう」、そう認識していた。

 今シーズンのJ1が開幕して間もない頃、権田に聞いたところでは、彼は次にFC東京と対戦する4月1日のJ1第5節で、古巣のファン、サポーターに挨拶に行くと既に決めていた。そうするのが当然と言わんばかりだった。

 実際、試合当日を迎えると、FC東京のファン・サポーターのブーイングと罵声は、なかなかに強烈だった。その圧力を感じたせいか、味方との連携ミスも起こし、権田は2失点に関与、3-1とFC東京に2点のリードを許した。それでも味方がわずか3分間で2点を取り返し、3-3の引き分けに持ち込んだ。権田はFC東京ファン、サポーターの怒りに屈する寸前で、鳥栖のチームメイトに助けてもらい、戦犯のそしりを免れた。

 そして試合後、権田は勇気をふるい、挨拶を実行した。仕方がなかったこととはいえ、結果的に背信行為を働くことになり、古巣に対する申し訳なさも手伝ったのだろう。FC東京のファン・サポーターの前に歩み寄った権田は、涙を溢れさせて、その場に崩れ落ちた。多分、それで気持ちは伝わった。FC東京のファン・サポーターは、試合中に浴びせたブーイングではなく、権田コールを送って励ました。

 この顛末ののち、ミックスゾーンに現れた権田は「僕は真面目過ぎるからオーバートレーニングにもなるし、一人で勝手に考えるから背負い込みすぎる」と言った。意識が高いのは決して悪いことではないが、そのストイックさが自らを追い詰めていた。自らに厳しさを課すだけでなく周りにも要求すると多少の軋轢も生じた。一度、ボロボロになるまで追い込まれた権田が罵声を浴びながらの試合に堪えるだけ快復できたのだとするなら、それは喜ぶべきことだろう。

 権田は自ら落とし前をつけ、FC東京のファン・サポーターに認めさせ、そして今後の路を切り拓いた。憎しみを背負うだけの異常な関係はもう終わった。これからは互いに切磋琢磨する正常なライバル関係を通じ、サガン鳥栖の権田修一は、FC東京に立ち向かっていく。


後藤勝

1993年頃から出版業界。1998年頃からサッカー関連の取材、執筆を始め、主に『サッカー批評』『スポーツナビ』などに寄稿。現在はWebマガジン『トーキョーワッショイ!プレミアム』でFC東京関連の記事を日々掲載している。著書に小説『エンダーズ・デッドリードライヴ』(カンゼン刊)など。