文=いとうやまね

5つの言語すべてを歌いこなす選手たち

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 南アフリカといえば、対戦こそなかったが2010年のサッカーワールドカップ南ア大会を記憶している人も多いだろう。どの試合も6色に彩られた無数の国旗と、ブブゼラと呼ばれるラッパのけたたましい音色がスタジアムを満たしていた。

 ラグビーではさらに記憶が鮮明だ。2015年にイングランドで行われたラグビーワールドカップでは、強豪国である南アと直接対決し、日本が劇的な勝利を収めている。そう、我々は南ア国歌をすでに何度か聞いているのだ。

 その時、歌詞が途中で英語に変わることに気づかれた人もいるだろう。曲調もまるで2つの曲を繋ぎ合わせたかのように変化する。南アの公用語は全部で11言語ある。国歌はその内の5つの言語を組み合わせて作られているのだ。

 英語が出てくるのは最後。メロディーが唐突に変わるのは、2つの曲を合体させたものだからである。前半は『神よ、アフリカに祝福を』、後半は『南アフリカの呼び声』という別々の曲で構成されているのだ。

 これだけでも、南アという国の複雑さを感じることができるはずだ。南アの共通語は英語だが、国歌の5言語による歌詞は、国民全員が歌えるよう子供の頃から指導されている。もちろん選手たちもだ。

『南アフリカ国歌』

第1節(コサ語)
神よアフリカに祝福を与えたまえ
その誇りを取り戻させたまえ

第2節(ズールー語)
われらの祈りを聞きとどけたまえ
われらに祝福を与えたまえ
われらアフリカの同胞なり

第3節(ソト語)
神よわれらの国に祝福を与えたまえ
戦いも争いも追い払いたまえ
われらの国を守りたまえ
われらの国、南アフリカ、南アフリカ

第4節(アフリカーンス)
青き空の彼方から
深き海の深淵から
永遠不滅の山々の
切り立つ峰々にこだまする

第5節(英語)
ともに来たれと呼び声が響く
われら一つになりて立ち上がらん
われら自由を求めて生きん
南アフリカ、我が祖国

ヨーロッパによる植民と侵略の歴史

 南アフリカがヨーロッパによって“発見”されたのは、1488年のことだった。アジアの豊かな香料を求めて、ポルトガルのバルトロメウ・ディアスはアフリカ大陸の西海岸を南下、ついに喜望峰に到達する。その後、南アフリカはおもにオランダによって開拓されていく。南アフリカに植民したオランダ人はブール人(ボーア人)と呼ばれ、彼らは喜望峰近くのケープタウンを中心に活動した。これがケープ植民地である。

 オランダの痕跡は、いたるところに残っている。その代表例が言語だ。南アフリカでは「アフリカーンス」というオランダ語由来の言葉が、西部を中心に広く用いられている。また地名にも、オランダの影響が認められる。南アフリカのほぼ中央を横断し、大西洋に注いでいるのがオレンジ川である。この川の名前の由来となったのが、オランダの王室オラニエ家だ。

 さらに、南アフリカにはかつてオレンジ自由国という国が存在した。もちろん、この国名もオラニエに由来している。オレンジ自由国の公用語は、当然ながら「アフリカーンス」だった。

 歌詞に英語が入っているのは、イギリスの影響である。18世紀からイギリスは南アフリカに進出、すでに植民していたオランダと対立した。ダイヤモンドと金の発見が確執に拍車をかけた。両国の争いは、19世紀末にボーア戦争に発展する。結局、戦いに勝利したイギリスが南アフリカのほぼ全域を領有、南アフリカの支配権は、最終的にイギリスが握った。その後、南アフリカは1934年にイギリスから独立、ようやく主権国家として自らの足で歩み始めるのである。

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『神よ、アフリカに祝福を』

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 南ア国歌の前半部分を成している『神よ、アフリカに祝福を』は、元々讃美歌として作られた曲だ。1897年に、ヨハネスブルグの音楽教師だったエノック・マンカイ・ソントンガが作ったとされている。この曲は、反アパルトヘイトのシンボルとして広まっていった。

 アパルトヘイト(人種隔離政策)とは、白人と非白人を隔離し、白人を優遇すると同時に非白人を差別的に取り扱う政策の総称である。1948年から制度の法制化が進み、各種のアパルトヘイト関連の法律が成立・実施されていった。数十に及ぶ法律と、数百とも言われる差別的な条例が網の目のように張り巡らされ、アパルトヘイトの名の下に、日常生活レベルから白人と非白人の分離が進められた。

 白人と黒人の居住区が指定され、互いの通行は禁止された。ホテル、レストラン、バス、列車、公園、トイレまでも白人用と非白人用に分けられ、「WHITE AREA」「WHITES ONLY」といった看板や、さらに酷い差別的な表示が掲げられた。異なる人種間の婚姻は禁止され、さらには恋愛も法的な禁止の対象となった。

 より大がかりなものとしては、ホームランド政策が挙げられる。黒人を「ホームランド」と呼ばれる特定の場所に移住させ、事実上の独立国としてしまおうという施策だった。国土の13%がホームランドに指定され、全人口の8割に及ぶ黒人たちが押し込められる形となった。ホームランドはそのほとんどが不毛の地で飛び地も多く、とても自立できる環境ではなかった。

 結局、さまざまな矛盾を孕んだアパルトヘイトは、国際社会の猛烈な批判の中、40年を経て撤廃へと向かったのである。

差別や憎しみを超えて

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 1994年のアパルトヘイト撤廃に伴い、マンデラ大統領が一つの決断をする。それまで正式な国歌だった『南アフリカの呼び声』と『神よ、アフリカに祝福を』の両方を、南アフリカの国歌として認めたのだ。それから3年後、1997年に2つの曲は統合され1曲として正式に南アフリカ国歌となったのだ。

 複雑な国歌は、複雑な国家の反映である。多様な国民を抱え、いまだ様々な問題を抱える南アフリカ。それでも、代表選手そして客席の国民が歌い上げる国歌からは、「すべての国民の調和を目指す」という、南アフリカの熱い願いを聴き取ることができる。

 南アの国旗の赤は「国家のために流された血」、青は「空」、緑は「大地」、黒と白は「黒人と白人」、黄色は「地下資源」、Yの字を横にした形は、勝利(Victory)の「V」と「団結に向けての一本道」を表しているという。南アの多様性には、新たな可能性が秘められているのだ。


いとうやまね

インターブランド、他でクリエイティブ・ディレクターとしてCI、VI開発に携わる。後に、コピーライターに転向。著書は『氷上秘話 フィギュアスケート楽曲・プログラムの知られざる世界』『フットボールde国歌大合唱!』(東邦出版)『プロフットボーラーの家族の肖像』(カンゼン)他、がある。サッカー専門TV、実況中継のリサーチャーとしても活動。