文=大島和人

大学4回生時にはアルゼンチンで7カ月プレー

©FC町田ゼルビア

 6月のキリンチャレンジカップ、アジア最終予選に向けた日本代表候補が25日に発表された。今回招集された25名の中で、最大のサプライズはMF加藤恒平(RECベロエ・スタラ・ザゴラ/ブルガリア)だろう。ただ昨年からヴァヒド・ハリルホジッチ監督は何度か加藤について言及していて、彼は既に一定の知名度を得ていた。私もそれほど驚くことなく招集のニュースを受け止めていた。

 自分が”驚き”を感じなかった理由はもう一つある。それは2012年にJ2・FC町田ゼルビアで彼のプレー、人間性に接していたからだ。

 加藤は12年冬の宮崎キャンプ終了後に、練習生として町田へやってきた。彼の名前には聞き覚えがあった。加藤はジェフ千葉ユースのメンバーとして、07年夏のクラブユース選手権は4強入りを果たしている。当時の彼は左サイドハーフで、準決勝では見事な左足ボレーも決めていた。しかし宇佐美貴史(当時中3)を筆頭に豊富なタレントを擁していたG大阪ユースに、千葉は2-4で敗れている。それが当時の彼にとっては最大の実績だった。

 立命館大時代は彼のプレーを見る機会が無かった。3回生の時点で彼は半ば大学サッカーのキャリアを捨て、海外への挑戦を始めていた。加藤は町田入りの直後にこう説明している。

「大学3年生の夏に2カ月だけ、夏休みを利用してアルゼンチンに行って、テストとかも受ける予定でした。そのときは怪我をして受けられずに帰ってきちゃいました。帰る際に『もしこっちでやりたかったらもう1回来年来い』と言われて……。大学は3年生の間に卒業単位を全部取って、4年生は大学に行かなくて良かったんです。大学4年の7月から2月まで、7カ月くらいアルゼンチンでプレーしていました」

 アルゼンチンのクラブとは最終的に契約がかなわず、加藤はジェフ時代に縁のあった唐井直がGMを務めていた町田に合流する。「最初は1週間の予定だったんですけど、あともう少し見たいというので、3週間くらい見てもらった」というテスト期間を経て、町田と契約を果たした。ただ当時の町田は今より経営規模が小さく、人件費にも限界があった。アマチュア契約に近い条件で、練習後には子供相手のスクールコーチも兼任していた。練習を終えて、クラブハウスから自転車でスクールに向かう当時の彼の姿を覚えている。

Jクラブからのオファーを断り、「浪人」を選択

©Getty Images

 12年春の町田は緊急事態に見舞われていた。元から選手層が薄かったところに主力のCBが次々に負傷。トレーニングマッチなどを通して未知数、DF未経験の選手を最終ラインで試していた。加藤も「僕としては中盤でやりたい」と語っていたが、いきなり最終ラインで試されることになる。

 私は加藤に驚かされた。アルゼンチンで既にオフェンシブハーフからボランチに転向していたとはいえ、彼がCBとして“普通”にプレーしていたからだ。身長は173㎝で、スピードもせいぜい標準レベル。しかし彼は相手との近い間合いに潜り込み、鋭く寄せる感覚を持っていた。何より身体の大きな相手にも向かっていく闘志があった。

 彼は第9節・甲府戦でJ初出場を果たし、第17節・徳島戦ではついに初先発。その後はリーグ戦の最終盤までポジションを譲らなかった。DF初心者だった彼が、ボランチから3バックの左CB、4バックの左SBとポジションを移しつつ、最終的には不可欠な存在となっていた。

 しかしチームの低迷は彼一人の力でどうにかなるものではなく、町田はJ2最下位でシーズンを終えることになる。秋田豊監督代行で臨んだ12月15日の天皇杯ラウンド16も、町田はG大阪と対戦したが、2-3と跳ね返されてしまった。

 シーズンが終わると、レンタルで町田に来ていた選手たちは降格の決まったクラブから次々に去っていく。そんな中で生え抜きの加藤がJ2復帰のキーマンとして期待されることは当然だった。しかし町田は最終的に加藤との契約更新を断念。加藤が上のカテゴリーへのチャレンジを優先し、敢えて「浪人」を選択したからだ。

 楠瀬直木強化部長(当時)は困り顔でこんなことを漏らしていた。「今年はちゃんとした条件も用意して、説得したんだけど…。涙を流して『申し訳ない』って。でもどうしても海外に行くといって……」

 楠瀬も東京ヴェルディユースの監督として小林祐希、中島翔哉といった向こう気の強いタイプと渡り合っていたやり手。しかし、その彼も加藤の意思の強さと”無謀な”選択について「分からない」とこぼしていたことを思い出す。

 自分の知る限り加藤は「ほんわか系」で人当たりのいい、それでいて誰に対しても真正面から向かうナイスガイだ。ただ彼は自分が決めた道に対しては頑固で、脇目を振らずに突き進んでいく。その一例が和歌山からジェフのジュニアユースに加入した決断であり、大学在学中にアルゼンチンへ渡った行動だ。

 自分も一取材者として、彼のその後を案じた。ただ聡明な彼なら仮にサッカーから離れてもやっていけるだろうという確信がまずあった。加えて単身アルゼンチンに乗り込み、逞しくサバイバルした彼なら、“何か”を起こすかもしれないという願望まじりの予感はあった。

 思えば最初のアルゼンチン挑戦も、単なる衝動的な行動ではない。スペイン語を独学し、単位も3年で取り終えるという準備をしたうえでの、周到なチャレンジだった。彼の中では2015年、19年に向けた“道”が見えていたのだろう。

 彼は半年以上の浪人期間を経て、13年8月にモンテネグロのクラブと契約。そこからポーランド、ブルガリアのクラブに進み、今季はUEFAチャンピオンズリーグの予備予選にも出場している。27歳の加藤はもう若手でないし、どん欲な彼は今のポジションにまだ満足していないだろう。ただ少なくともJ2最下位のクラブでプレーしていた当時と比較にならない高みに、彼は到達した。

 意志の強さと覚悟、そして準備がどれだけアスリートのその後を変えるか――。加藤のサッカー人生は、我々にそんなことを教えてくれる。


大島和人

1976年に神奈川県で出生。育ちは埼玉で、東京都町田市在住。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れた。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経たものの、2010年から再びスポーツの世界に戻ってライター活動を開始。バスケットボールやサッカー、野球、ラグビーなどの現場に足を運び、取材は年300試合を超える。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることが一生の夢で、球技ライターを自称している。