幼妻と異国の海軍士官/FS『蝶々夫人』
悲しみをたたえた眼差し。その先にあるのは、自分のもとを去って行く身内や友人たちの姿だろうか。あるいは、悲劇的な結末を予感しているのかもしれない。やや憂いのある優しい調べに、まだ年端も行かない蝶々夫人の無垢な愛と〝決意″を乗せて、浅田は未来に滑り出す。舞台は軍港が見渡せる丘の上の屋敷である。
演技冒頭の『夕闇が訪れて来た』は、劇中では有名なアリア『愛の二重唱』の少し前にある。異国から来た夫との結婚初夜、孤独の中で気丈に振舞う蝶々夫人の芯の強さが表現される。不安を打ち払うトリプルアクセルに、愛の希望を重ねる。
イタリアオペラ『蝶々夫人』
オペラ『蝶々夫人』は、アメリカ人小説家ジョン・ルーサー・ロングの短編小説『マダム・バタフライ』にオリジナルを持つ。後にイタリア人作曲家ジャコモ・プッチーニが自身の作品のモチーフにした。時代設定は明治初期である。
没落士族の娘で芸者に身を落とした蝶々が、長崎に寄港中のアメリカ海軍士官ピンカートンに見初められ、嫁ぐところからストーリーは始まる。
「かわいい妻よ、バーベナの香りよ…」
ピンカートンは花嫁を“バーベナ"の花に喩えていた。サクラに似た形の小さな花が、枝先に散房状につき、そのかたまりが鞠のように見える。夏から秋にかけて様々な色を楽しめるのだが、衣装の薄紫は、そんなバーベナの花の一種を思わせる。香りはレモンに似ている。
この結婚は、ピンカートンにとってほんの戯れでしかなかった。蝶々夫人は赴任先の現地妻であり、任務が終わると、妻が身ごもっているのも知らずに国に帰ってしまう。ところが、蝶々夫人は夫の帰りを信じて、ひたすら待ち続ける。そう、3年もの間ずっと…。
蝶々夫人には、身の回りの世話をする女中がいる。丘の上の屋敷にいっしょに住んでいるのだが、彼女はそんな蝶々夫人を不憫に思い涙するのだ。そんな時、蝶々夫人は言い聞かせるように歌うのである。
「やがて白い船が港に入り、礼砲を鳴らすの。見える?あの方がお戻りになられるのよ…」
リンクを広く使った滑らかなスケーティングは、眼下に広がる長崎の街と、果てしない青い海を思わせる。水平線の向こうには愛する夫がいるのだ。
美しい連続スピンは、蝶々夫人の凛とした佇まいと、少女から大人の女性へと変貌を遂げた“長い月日"を感じさせる。それはまさに「蝶」そのものだ。十五だった幼妻は、夫を待つ間に、十八の若い母親になったのである。
貫く愛と死の影
着物を模した衣裳には、合わせや抜き襟、帯揚げ、帯締めまである。少し広がった優雅な袖口と裾のグラデーションが何とも美しい。帯と髪留めには、紫地をベースに銀と濃紫の花更紗刺繍が施されている。古くから海外に開かれた長崎には刺繍の文化が根付いているのだ。いくひらもの銀の蝶が胸元に舞っている。
この話には、モデルがあると言われる。長崎の名所「旧グラバー邸」のグラバー夫人その人だ。夫であるイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーは、生糸や茶、武器の貿易で成功した人物である。屋敷は丘の上にあり、妻のツルも武家の出であった。そんな共通点から出てきた逸話である。事実かどうかはわからない。
「ある晴れた日に、ひとすじの煙が昇るのを私たちは見るの。水平線の彼方に、やがて船が現れるの…」
夫との再開を夢見て、蝶々夫人は女中に話し続ける。そこには、初めてこの丘を登り嫁いできた日の少女のような眼差しがある。
「その人は遠くから“蝶々さん"って呼ぶわ。私は応えずに隠れていましょう。ちょっとした悪戯よ。でも、本当は会った喜びで死んでしまわないように…」
このオペラには、何度となく「死」を匂わせる前振りがある。この歌詞もそのひとつだ。無邪気な中に潜む悲劇を、浅田の表情から汲みとりたい。
そして、自身にも言い聞かせるように、「信じて待つ」と夫への忠誠を誓うのだ。天を突くようなソプラノと浅田のダイナミックなイーグルが重なる。
結局、蝶々夫人はピンカートンに裏切られる形で、死を選ぶことになる。
「士族の娘である誇りを守るため」
それは、嫁いだその日に決めていたことなのだ。嫁入り道具には、父の形見の短刀が入っていたのだから…。浅田は静かに羽を休めるのだ。
この作品には、多くの思いが幾重にも折り重なっている。女性の権利にまでコンセプトを広げ振付をしたローリー・二コルさん。こだわり抜いた和の衣装を浅田選手とともに作り上げた、デザイナーの安野ともこさん。そして、自身の中にある日本女性の潔さを体現した浅田真央本人。珠玉のプログラムは、本家オペラと匹敵する厚みを持って永遠に記憶の中に生き続けるはずだ。
■展示会情報
『美しき氷上の妖精 浅田真央展』
会期:2017年9月13日(水)~25日(月)
入場時間:午前10時半~午後7時(7時半閉場)
※最終日:9月25日(月)は午後5時半まで(6時閉場)
会場:日本橋高島屋 8階ホール
※入場無料
■巡回予定:
10月18日(水)~29日(日)横浜高島屋8階ギャラリー
12月13日(水)~25日(月)大阪高島屋7階グランドホール
2018年1月4日(木)~22日(月)京都高島屋7階グランドホール
4月18日(水)~30日(月・振休)ジェイアール名古屋タカシマヤ10階特設会場
[引退]浅田真央の美しき記憶〜「最高傑作」/FS『ラフマニノフ・ピアノ協奏曲・第2番』
「その羽は青く鋭い光を放ち、豊かな翼と長い尾を飾る。雲のその上の宮殿に住み、この世の鳥族の頂点に君臨する。美しき青い鳥は、鷲の強さと、鳩の優しさを併せ持つといわれる」。幸運をもたらす「青い鳥」はロシアの伝承のひとつである。衣装はタチアナ・タラソワから贈られたものだ。
愛は炎、そして戦い…。浅田真央が『リチュアル・ダンス』に込めた“熱”を回想する。
映像集『Smile Forever』の発売を記念して開催されている、『美しき氷上の妖精・浅田真央展』。連日たくさんのファンを迎える日本橋高島屋の会場には、思い出深い衣装やスケート靴、メダル、浅田本人がセレクトしたという写真パネルが所狭しと飾られている。同展示会のアイコンであり、浅田最後の演目になった『リチュアル・ダンス』を振り返ってみたい。(文:いとうやまね)
浅田真央演ずる"強気な女"。人気のプログラム『素敵なあなた』に思いを馳せる。
10月発売の映像集にも収録されている人気の高いプログラムである。強烈なローズピンクにポニーテール。斜に腕を組み「ふんっ」と笑う。そんな強気の浅田真央に世界中が魅了された。日本橋高島屋で開催中の『浅田真央展』にも、思い出深い当時のままの衣裳が飾られている。コーラルなのか、はたまた紫なのか?カメラやライティングによって色味の印象が変わる魔法のようなピンクは話題になったものである。解説リクエストも多かった『素敵なあなた』を今一度振り返ってみたい。(文=いとうやまね)
[引退]浅田真央の美しき記憶〜あの日の初恋/SP『ノクターン』
「初恋」をイメージしたという23歳の『ノクターン』。その見つめる先には、16歳の浅田真央がいた。引退の報を聞いたとたんに頭の中で『ノクターン』が鳴り出した。繰り返し、繰り返し、止まらない。ソチ五輪での失敗を清算したかたちになった世界選手権。その見事なまでの演技は、記憶の宝石箱の中で今も燦然と輝いている。しばしその記憶に浸りたい。