文=氏原英明
11球で終わった最後の甲子園
©共同通信むせび泣く高校球界屈指の左腕を眺めながらいろんな想いが交差した。
2009年夏の甲子園準決勝戦の中京大中京(愛知)―花巻東(岩手)戦のことだ。
1-11で試合に敗れた花巻東のエース・菊池雄星(現西武)はあふれる涙を抑えることができなかった。
同年春のセンバツ大会で準優勝。期待を背負って岩手県勢初の載冠を期して臨んだ夏だったが、準々決勝の明豊(大分)戦の守備機会で相手と衝突、背中を痛めた。
その影響で準決勝の中京大中京戦は先発を回避して4回裏から途中登板したが、たった11球しか投じることができず、マウンドを降りた。
菊池がむせび泣いたのは、最後までマウンドに立つことができなかったからだった。あふれる涙とともに、当時、菊池が口にした言葉が印象的だった。
「腕が壊れても最後までマウンドにいたかった。人生最後の試合になってもいいと思いました」
ゾっとする言葉だった。
彼をそうまで思わせるものは何か。
そこに、甲子園が及ぼす「清」と「濁」がある。
ファンの心を打つ甲子園の舞台
菊池が甲子園に初めて姿を現したのは高校1年の夏のことだ。
花巻東が4度目の甲子園出場を果たし、当時1年生の菊池がメンバー入り。1回戦の新潟明訓(新潟)戦で敗れたものの、菊池は、試合途中からマウンドに立ち5回を1失点。ストレートの球速は145キロを計時した
「あっという間の甲子園でした。甲子園を見て『でけぇ』と思ったのが最初で、すぐに負けてしまいましたから。かすかに覚えているのが、最終回のマウンドに立った時に、『ここに来るのは最後かもしれない』と思って、全力で投げたこと。2三振を取ることができました」
いきなりの甲子園出場に高校生活は順風満帆のスタートに思われたが、岩手に戻ると、強烈な視線が菊池を待ち受けていた。
1年生で145キロをマークして甲子園に出場。
岩手県内に「菊池雄星」の名を知らないものは誰もいなかったのだ。
「『1年で甲子園で投げた菊池雄星だ』という目で見られるようになって、力みまくってしまいました。フォームがばらばらになって135キロしか出なくなって、ストライクも入らない。1年間はそういう状態が続きました。他の同級生たちがどんどん有名になって焦りました。岡田俊哉(中日)や今村猛(広島)、筒香嘉智(DeNA)が2年生夏の甲子園で活躍していたのを見て、それまでに持っていた自信がなくなりました」
菊池が改善の兆しを見せたのは、2年秋の新チームになってからだった。フォームを見直したことが功を奏し、ピッチングの中身が変化する。3年春に甲子園出場を決めると、その大舞台で菊池は見事に力を発揮した。
1回戦の鵡川(北海道)戦では9回1死までノーヒット・ノーランの快投。大記録は達成できなかったが、12三振を奪う快投で、「菊池雄星」の名を全国に知らしめたのだった。
2回戦以降も順当に勝ち上がり、岩手県勢として初めて決勝の舞台へ上がった。試合には敗れたものの、当時、清峰にいた今村(広島)との決勝戦での投げ合いは、センバツ史に残る投手戦となった。
岩手に戻ると、熱烈な声援と視線が彼らに向けられた。当時の花巻東は地元の選手だけで編成されていたが、そのことも、ファンの心を打った。
「僕らはただ必死にやっていただけでしたが、岩手に帰ってからの反響がすごかった。それまで高校野球に関心がなかったおじいちゃんおばあちゃんも野球が好きになってくれて、感動したよって言ってくれた。練習試合では父母の方しか観戦に来なかったのに、学校のグラウンドが満杯になった。僕らが取り組んでいたことが中学校で流行ったり、そういうのは嬉しかったですね」。
影響力の凄まじさを知った。
甲子園にある「清」とはこの部分だ。
高校球児は懸命に努力し、あの舞台を目指す。
その姿に、心を打たれるファンがいるのだ。
プロ野球選手となった菊池の甲子園に対する思い
©共同通信今年夏、11年連続甲子園に出場を果たした、福島・聖光学院の斎藤智也監督がこんな話をしていたことがある。
「自殺を決意した人が、最後に高校野球を見ようと思って、うちのグラウンドに来て、子どもたちが一生懸命に練習する姿を見て、自殺を想いとどまったという手紙をもらったことがあります。子どもたちは、一生懸命やっている、そこに、甲子園があって、そのおかげで影響していることもあるんじゃないかなと思う」
高校野球には人知れず、誰かを勇気づける力がある。
しかし、それほど注目されるがゆえ、高校球児が限界を超えて頑張りすぎてしまうという側面があるのも、また事実だった。
1年時の菊池がそうだったように、周囲の期待に応えようとするがあまりに自分を見失ってしまう。これは高校野球に潜む、もうひとつの側面といえるだろう。
菊池は高校3年の夏、県民の期待を背負っていたし、センバツ準優勝をしたことで取材陣が殺到した。日米プロスカウトからも注目を集めたこともあった。菊池の性格が「手を抜く」ということを知らなかったことも、必要以上に頑張らせた。
期待に応えると、さらなる期待が生まれ、菊池は必死に戦った。たとえ、自身の身体が崩壊寸前だとわかっていても――。
「甲子園」という舞台の大きさが招く「濁」の部分である。
「人生最後の試合になってもいい」
今、あの時の言葉を問うと、「嘘偽りはない」という。本気でそう思い、腕を振り続けたことに後悔はないと菊池は語っている。
「甲子園によって注目してもらったし、いいことばかりじゃなかったのかもしれないけど、皆さんに見てもらって、野球選手として名前を知ってもらえた。僕は甲子園に感謝しています」
菊池は、現在、入団8年目にようやく西武ライオンズのエースになった。157キロのストレートをバンバンと投げ、魅力あるピッチャーへと成長した。
菊池の野球人生はあの日で失くならなかった。
だからいまは、そういっていられるし、元気な姿、凄まじい投球を見せることができている。
しかし、一方、誰もが菊池のようになったわけではない。
「甲子園」には人々に勇気と感動を呼ぶと同時に、時には「野球人生がなくなってもいい」とさえ、高校球児に言わせてしまうのだ。危険と隣合わせの「清濁」があるということを決して忘れてはいけない。