秘めたる心の炎
静寂の中で、一本の立木が風に吹かれ一瞬大きく揺れる…。そんな情景が浮かぶ静かな始まりだ。どこか不思議な響きのあるユニゾンは、ショパンが好んで使ったという「ナポリ和音」で構成されている。
繊細で抒情的な旋律に乗って、羽生は加速する。淡いブルーから白へのグラデーションに、袖口と脇に差した金色が効果的だ。ブロンズのサッシュもまた、高貴な装いを感じさせる。散りばめられたストーンの輝きが、氷の白に現われては溶け、また現れる。なんとも神秘的である。
息をのむ美しいジャンプとイーグル。続くフライングキャメルスピンは、抗うことを許さない時代のうねりと、その流れに翻弄される魂を感じさせる。それはやがて苦悩のシットスピンへと繋がっていくのだ。
羽生の体は風に弄ばれる木の葉のように、リンク上を左に右に回転をはじめる。大技が決まると、ピアノは徐々に激しいステップの待つ、終盤の“深刻な”旋律を奏ではじめるのだ。
青年ショパンの苦悩
この曲が作られた当時のポーランドは、列強の支配下にあった。フランス革命の影響をまともに受け、独立への機運が高まってくると、ショパンの父親はこう言って才能ある息子を国外に送り出したという。
「お前は革命軍の軍務に耐えるにはあまりに体が弱い。音楽の才能をもって国に仕えなさい」
ショパンが生まれ育った土地を後にしたのは21歳の時。以降、再びワルシャワに戻ることはなかった。羽生もまた、震災を経験した翌年にカナダに渡っている。支援を惜しまない家族や傷ついた故郷に、後ろ髪を引かれる思いがあったに違いない。
ショパンが国を出てまもなく、ワルシャワでは武装反乱が勃発。その知らせは旅先のオーストリアにも届いた。しかし大国との武力差は歴然で、すぐに鎮圧されてしまう。この蜂起はその後ロシア・ポーランド戦争に拡大するが、ワルシャワは陥落し再びロシアの占領下に入るのだ。
ショパンは、遠い異国の地で自分の無力さを思い知らされる。そして、憤りや悲しみを鍵盤に落とし込むのだった。その代表作が有名な『革命のエチュード』であり、『バラード第1番』もまた、数年を経て発表されている。
羽生のプログラムに使用されているのは、ポーランドが誇るピアニスト、クリスティアン・ツィマーマンが演奏しているの『バラード第1番』である。ツィマーマンもまた、社会主義政権下の祖国を離れスイスに渡った音楽家だ。現在のポーランドは、多くの困難や悲しみ、犠牲の上に存在する。
ロマン主義と氷上のレジスタンス
演技終盤の羽生の舞いは、戦いの様相を呈す。その姿は「戦士」だ。
「バラード」には、英雄伝や神話を題材にした作品が多い。そこには通常「歌」が入るのだが、ショパンは歌のない“楽器のみ”のバラードを確立した音楽家として知られる。
18世紀末から19世紀前半にかけて、ヨーロッパでは「ロマン主義」という精神運動が盛んになった。感受性や主観に重きをおいた表現方法で、文学、哲学、芸術にまで及んだ。音楽にもその波は起こり、物語性を重視したバラードは、その担い手となった。
『バラード第1番』は、同時代に活躍したロマン派の詩人、アダム・ミツキェヴィチの叙事詩にインスピレーションを得た作品として紹介されることがある。関連付けられる『コンラード・ヴァーレンロッド』は、詩集『バラードとロマンス』に収められている作品のひとつで、ショパンがワルシャワで学生生活を送っていた頃に発表されたものである。
ミツキェヴィチもまた、時代のうねりに翻弄されながらも、ペンを持って戦った戦士といえる。ショパンの一連のバラードがストーリーに沿って作曲されたとは考えづらいが、ミツキェヴィチをはじめとする思想家の影響を受けたことは、まず間違いないだろう。
ミツキェヴィチ作品は、ニッコロ・マキャヴェッリの思想書と共に、「倫理的・道徳的な態度」を定義する指標として、ポーランドの民族蜂起に多大な影響を与えたという。
ショパンは晩年、病気療養中のミツキェヴィチをパリで見舞っている。そこでピアノを披露したそうだが、なんの曲だったかまではわからない。ふたりはパリのサロンで以前から交流があり、ショパンはミツキェヴィチの詩に曲を付けたこともある。
『バラード第1番』は、映画の中でも“抵抗”の象徴として用いられている。ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を映画化した『戦場のピアニスト』の中でも鮮烈な印象を残す。
廃屋でドイツ軍将校に見つかった主人公が、死を覚悟しながら弾くのが、『バラード第1番』なのである。この選曲は、音楽家としての最後の抵抗を表している。
演技終盤の激しいステップは、自らの運命に立ち向かう強い姿勢を思わせる。それは、「自分の中に革命を起こす」羽生自身の姿なのかもしれない。
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