写真:鬼塚雅選手は平昌五輪でメダルを期待されながらスロープスタイル19位に終わり、自身のブログに「応援してくれた方、ごめんなさい」と謝罪のコメントを綴っていた。

期待通りの結果を残せなかったとき、ファンに対して謝るべきなのか?

日本の選手はお詫びの言葉をよく口にするような気がする。期待通りの結果を出せなかったとき、チームの足を引っ張るようなプレーをしてしまったときに「申し訳ない」と言う。

私がそんなことを感じたのは、2016年リオデジャネイロのオリンピック・パラリンピックの頃だった。米NBC局が映し出す米国選手は、負けたときでもあまり謝らず、サポートしてくれた周囲、応援してくれたファンに感謝の言葉を述べていた。それと比較すると、日本の選手はよく謝っていた。これは文化の違いから来るものだから、どちらが良くて、どちらが悪い、という種類のものではない。何かをしてはいけない理由を教えるとき、キリスト教文化圏では「神の命令だから」、日本文化圏では「他人に迷惑を掛けるから」とされることが多いことも影響しているだろう。

それでも、日本の選手が、記者会見で「申し訳ない」と絞り出すのを聞くと、私は心苦しい気持ちになる。スタッフやチームメイトら身近な人に謝りたいと思うのは、当たり前のことかもしれないが、テレビ画面の向こうにいる人たちにも謝らなければならないのか。不祥事の会見でもないのに。

結果を出せなかった選手がお詫びするのには、それぞれの事情があるだろうが、ここでは、私なりの考えを綴ってみたい。

報酬系を活性化させるマスメディアの報道

選手たちは、期待に応えられなかったことを申し訳なく感じているようだ。各競技団体、指導者ら、選手を直接的にサポートしている人からの期待がある。オリンピック・パラリンピック級の大きなスポーツイベントになれば、世間からの期待も膨らむ。

世間からの期待に少なからぬ影響を及ぼしているのが、マスメディアだ。マスメディアは選手への期待を煽りがちだ。

人の脳には報酬系というドーパミン神経系がある。報酬系は「心地よい」という感覚を生むための装置だ。例えば、喉が渇いている人が水を飲むと、報酬系は活性化する。実際に水を飲んだときだけでなく、もうすぐ水を飲むことができると想像するだけでも活性化するそうだ。人間は報酬系がゴーザインを出した行動を選ぶようになっているという。

これをスポーツ報道に当てはめてみる。これから始まる大会で、日本の選手はメダルを獲得できるかもしれない、と期待を込めた文脈で報じる。視聴者、読者は、応援する選手の活躍を想像するだけで、報酬系が活性化されるのではないか。胸躍る瞬間を逃したくないと思い、中継や記事を求めるのではないだろうか。マスメディアは、できるだけ多くの人に試合中継を視聴してもらう、記事を読んでもらうことでビジネスが成り立っている。だから、無意識的であれ、意識的であれ、期待させるような報道になっている。

敗戦の原因の追求から自らを守る

しかし、見ている人は、期待していた通りのことが起こらなかった場合には、期待していた分だけ、落胆や欲求不満を感じてしまう。期待外れのがっかりした気分から抜け出したいと思う。そのためには、納得できる敗戦の理由や文脈を必要とするようになる。

スポーツにかかわらず、何かうまくいかなかったときに、「なぜこうなったのか」と考える。たいていの人は、うまくいっているときには、「なぜうまくいったのか」を自問することは少ないだろう。

スポーツ報道でも似たようなところがある。選手が勝ったり記録を達成した瞬間には、その理由を報じるケースももちろんあるが、どちらかといえばそれがどれほど価値のあることなのかを強調する傾向が強いようにみえる。例えば、『〇〇種目では日本初の金メダル!』、『史上〇人目の記録達成!』などという表現だ。負けたときには、対戦相手や気候、審判などの外的要因、選手自身の内的要因を挙げ、説明を加えながらソフトランディングさせることが多いように感じる。

しかし、このようなメディアの手法は日本だけでなく、米国でも同じようなもの。スポーツ報道に力を入れている国や地域なら、どこも似たり寄ったりのスタイルだろう。

日本の選手は、負けた原因の追及から身を守ろうとして、他人に求められる前に、自分で自分を罰し、それを世間に知らせているのではないか。米国の選手は、感謝の言葉や対戦相手の強さを称えることで、原因の追究から自分のメンツを守ろうとしているのかもしれない。

『勝敗は背後の集団の実力の程度を象徴する』社会学者の論考

日本の社会学者、作田啓一は1965年9月に『高校野球と精神主義』という論考を発表している。タイトルの通り、当時の高校野球について書かれたものだ。また文末には、前回の東京オリンピックを控えた1964年7月に書いたものだという但し書きがあるように、オリンピックを意識して執筆されたものでもある。
  

敗戦に泣く高校生選手は確かに純真に違いないが、負けて泣くほど勝利を希求させるおとなたち(監督、校長、その背後にある後援会)の圧力を思うと、その純真さに単純に同情する気持ちにはなれない。
『高校野球と精神主義』(作田啓一)

 
と、作田は述べている。

そして、このように続く。
 

日本の社会では、個人は集団を、集団はもっと大きい集団を代表する仕組みになっている。大はオリンピックから小は高校野球に至るまで、人は国家のために、母校は郷土の栄誉のために、どうしても勝たなければならない。私たちはいつも、家族や職場や組合の代表者としての責任を重く背負ってよろめいている。
『高校野球と精神主義』(作田啓一)

 
オリンピックやパラリンピックに出場する選手たちは、代表の座を勝ち取った喜びよりも、選ばれた責任の重さに苦しんでいるのかもしれない。

さらに作田は、
 

集団的なものは宗教的「聖」の範疇に属し、個人的なものは日常的「俗」の範疇に属するとすれば、私たち日本人が集団の代表として行動するとき、私たちはいわば宗教的な営みを行っているのである。郷土や母校や後援会の期待を担って甲子園に出場する選手たちはもはや「個人」ではない。彼らは集団の繁栄を儀礼的に演出する司祭である。チームの勝敗は背後の集団の実力の程度を象徴するから、絶対に負けてはならない。
『高校野球と精神主義』(作田啓一)

 
としている。

50年以上前の日本に比べて、個人を縛る程度は弱まってきている。とはいえ、選手たちは今も、代表になれば「個人」ではなくなり、所属する集団や国家の象徴であるために、「負けてはいけない」という重圧を背負っているのだろう。司祭として任務を遂行できなかった自分を自分で罰し、詫びるのかもしれない。

人々が、オリンピックやパラリンピックで、代表選手を応援するのは、同じ国の選手という気持ちの結びつきがあるからだ。自分の国の選手に期待するのは、日本に限らず、どこの国でもそうだろう。ただ、周囲の期待と結果が一致しなかったからといって、自罰的になってほしくはない。選手の好パフォーマンスや好成績は、応援する者の喜びである。けれど、日本という国のすばらしさを象徴するために、どうしても勝たなければという重圧を背負ってほしくはない。責任や呪縛から心身を解放してパフォーマンスしてほしい。

負けた選手たちの「申し訳ない」という言葉を聞くとき、聞いているこちらも選手に対して申し訳ないような気持ちになってくる。私も日本人だからなのだろう。

<了>

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谷口輝世子

著者プロフィール 谷口輝世子

スポーツライター。1971年生まれ。1994年にデイリースポーツに入社。1998年に米国に拠点を移し、メジャーリーグなどを取材。2001年からフリーランスとして活動。子どものスポーツからプロスポーツまでを独自の視点で取材。主な著書に『帝国化するメジャーリーグ』(明石書店)、『子どもがひとりで遊べない国、アメリカ』(生活書院)、章担当『運動部活動の理論と実践』(大修館書店)。