シモナ・ハレプが感じ取った大坂なおみの変化

ツアー初優勝を決めた一撃は、豪快で鮮やかなフォアハンドのリターンウイナーだった。

そのとき彼女は、胸の前で小さく拳を握りしめるガッツポーズを見せると、満面の笑みを客席の一角に向ける。視線の先では、優勝者の控え目な喜び方を補填するかのように、飛び上がり抱き合う歓喜の輪が広がっていた。コーチのサーシャ・バヒンに、アスレティックトレーナーの茂木奈津子、そしてS&C(ストレングス&コンディショニング)コーチのアブドゥル・シラー――それらの顔はいずれも今季、もしくは今大会から大坂のサポートスタッフとして集結した、“チーム・なおみ”の面々である。

グランドスラムに次ぐグレード大会のBNPパリバ・オープンを制し、続くマイアミ・オープンでは、幼少期から憧れ続けた「アイドル」のセリーナ・ウィリアムズをも撃破。ここに来て、とてつもない潜在能力を一気に開花させた感のある大坂なおみは、20歳の若さに加えて「大阪生まれのフロリダ育ち」という国際色豊かなバックグラウンド、さらに会見等でネット用語を多発する“新人類”っぷりも相まって、世界のテニス界も注目する未来の女王候補へと躍り出た。

その覚醒の兆しが見え始めたのは、今年1月の全豪オープンである。「今取り組んでいるのは、ポジティブな姿勢をどんな時にも維持すること」……全豪大会中の彼女は、この言葉を幾度も繰り返していた。それは昨年末にコーチに就任した、バヒンに言われ続けたことでもある。

いかなる相手をも圧倒する力を秘めた一方で、完璧主義者で自分に厳しすぎる性格が禍し、試合中に突如内面から崩れることもあったのが昨年までの彼女。その大坂に、「物事をそんなに難しく考えることはないよ! 人生は素晴らしい! 天気も良い! 楽しもうじゃないか!」と練習時から明るい雰囲気づくりに尽力してきたのが、長駆でエネルギッシュな若き新コーチだった。この全豪で大坂は、これまで跳ね返され続けてきたグランドスラム3回戦の壁を突破する。さらに4回戦ではシモナ・ハレプに敗れるも、世界1位に「彼女(大坂)は以前に比べ、コート上で常にポジティブだった」と言わしめるまでの内面の成長を見せていたのだ。

大坂とバヒンがタッグを組むことになったのは、昨年11月のこと。複数の“コーチ候補者”の中からトライアウトの結果選ばれたのが、女王セリーナのヒッティングパートナーを8年務めたバヒンだった。

そのバヒンは就任早々に、大坂の「物事をネガティブにとらえやすい」性分の改善こそが、最初のステップだと察知する。そのために彼が切った手札が、“セリーナカード”だった。
「セリーナだって、常にポジティブだった訳ではない。落ち込んでいた時もあった。そんな時に彼女はノートに自分を鼓舞する言葉を書き、それを見返していたんだ」。
バヒンは、セリーナを女王たらしめた本質を、新たな教え子へと語り聞かせる。それら、セリーナに最も近かった人物から伝え聞くリアルな女王の人間像は、間違いなく大坂を変えたはずだ。

大阪なおみの下に集まった元セリーナのスタッフ

©Getty Images

ちなみに、昨年まで父親とツアー転戦していた大坂に「プロのプライベートコーチを雇うべきだ」と進言し、その候補者にコーチ経験のないバヒンを選んだのは、エージェントのスチュアート・ドゥグッドである。先の全豪ベスト4のチョン・ヒョンや、昨年の全米オープン準優勝者のケビン・アンダーソンら多くのトップ選手をクライアントに抱えるドゥグッドは、数年前にスポーツマネージメント会社のラガルデールから、この業界最大手のIMGに引き抜かれた敏腕マネージャー。やや余談になるが、今季大躍進中のチョン・ヒョンと、昨年のATP(男子プロテニス協会)最優秀コーチ賞に輝いたネビル・ゴッドウィンを引き合わたのも彼。コーチやトレーナーなどの人材が目まぐるしく入れ替わり、情報と人脈がモノを言う生き馬の目を抜くこの世界では、優れたエージェントの存在も、選手の命運を左右する鍵となる。

話を大坂なおみに戻そう。今年3月に大坂のS&Cコーチに就いたシラーもまた、2004年からの約3年間、セリーナのもとで手腕を振るった人物だ。その時は、バヒンとは入れ替わりだったため一緒に働く機会は無かったが、その後二人は揃って“ポスト・セリーナ”として米国の期待を集めたスローン・スティーブンスのスタッフに就任して親交を深める。さらにバヒンがビクトリア・アザレンカのヒッティングパートナーを務めた時、シラーはアザレンカの母国ベラルーシのテニス協会で働いていた。そのような人の縁が引き寄せ合い、大坂のまわりには“女王育成のレシピを知る者たち”が集結する。そしてそのチームを覆う明るい空気を醸成するのは、練習時に大坂と打ち合うだけでなく、トレーニングも率先して共に行い、時には道化役に徹して笑いを誘うバヒンだ。気難しい女王のナイト役を、8年務めた人心掌握術は伊達ではない。

憧れの存在を熟知する人達の存在は、言わば即効性の高い劇薬。その効果が絶大なうちに、ツアー優勝や“憧れ超え”を達成したことで、さらなる効果の持続も期待される。

何より頼もしいのは、今回の一連の結果にも、大坂をはじめチームの誰一人として浮足立つ様子がまるでないことだ。笑顔もポジティブな姿勢も、そして優勝をも日常の一部として淡々と受け止めるこの人々が、やがては新たな女王の城を築くのかもしれない。

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内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。