球数制限は球児の肘や肩を守る金科玉条ではない

猛暑の中での「甲子園」、球数制限の導入を訴える声が高まっている。劇的な結末となった済美対星陵の試合、済美のエース山口投手が延長13回を一人で投げきり、184球を完投。この数字が議論に拍車をかけた。

私は球数制限には賛成できない。
「184球」を問題ないと言うつもりもないが、「球数制限をすれば、投手の健康が保たれる」という短絡的な発想には賛同できないし、「球数制限こそ、選手の健康を守る最優先課題だ」とする、あまりに無責任で本質を外れた論調には呆れてしまう。

高校時代、私は投手だった。その経験も踏まえて言うが、投手が肩や肘を傷める最大の理由は投げすぎではない。投げすぎによる蓄積疲労が故障の要因になることも否定しないが、投手が肘や肩を傷めるのは、多くの場合「一球」だ。

メディアや大衆は184球を「異常な球数」と決めつけるが、5キロ走ることだっておぼつかない私から見ればマラソンの42キロだって「異常な距離」だ。走った経験のない人間の感覚だけで、「マラソンの距離制限をするべきだ」という大合唱が起きたら妙なものだ。今回の議論には、そのようなおかしさも含んでいることに気づくべきだろう。

米国の目安「100球」に根拠はあるのか?

2013年にMLBナショナルリーグの最優秀新人賞に輝いたホセ・フェルナンデス投手(マイアミ・マーリンズ)が次のシーズン早々肘を傷め 、トミー・ジョン手術を受けた。その時のマイク・レドモンド監督のコメントが印象的だった。

「私たちは可能な限り彼を守ってきた。先発機会の合間にはより多くの休みを与え、起用法、球数も安定したものにしてきたのに……。それでもフェルナンデスは肘を痛めた。一体、どうすればよかったんだ?」

つまり、投球数の制限は、絶対的に有効な方法ではない。端的に言えば、肘や肩を痛めない「正しい投げ方の習得」こそが最も重要なテーマだ。正しい投げ方ができていれば、たとえ100球を越えても、それが即座に故障につながるとは言えない。肩や肘に負担をかける投げ方をする投手の一球と、負担の少ない正しい投球を身につけている投手の一球では、まったく違うことも理解すべきだ。言い換えれば、安易な球数制限は、身体に負担をかけない投法を身につけた投手へのリスペクトがまったく忘れられている、不当な平等論、常識論だ。

アメリカでは、1回の登板につき、おおむね100球が球数の目安にとされている。これは、訴訟が盛んに行われ、平等や人権に配慮しないと大衆の支持を得られないアメリカ社会を反映した傾向でもあるだろう。WBCでは、1次リーグは1試合65球、2次リーグは80球、準決勝と決勝は95球まで投球数が制限され、50球以上投げた試合の後は4日間、30球以上投げた場合や2日連続で投げた場合は翌日の登板を禁じるなど、細かなルールが設定されている。これには投手の健康を第一に守るためだけでなく、選手を代表チームに派遣する所属チームに対する配慮という側面がある。WBCで導入されているという事実をもって球数制限の正当性を根拠付けるのは、論理的に無理がある。

球児ファーストを謳うなら球数制限よりもまず意識改革を

済美対成陵の試合を受けて、橋下徹さんが、「球数制限は直ちに導入すべき。こんな不合理・非科学的なことをやり続ける国は、前近代的野蛮国家だ」とツイートしたことも話題になった。続けて練習日数や練習時間制限にも言及しておられる。その主張には同意するが、このツイートに限って言えば、刃を向けるべき先は「球数」ではなく、災害レベルと認定された酷暑の中で、夏の甲子園を強行している行為に対してではないか。
屋外での活動が危険とされる暑さ指数(WBGT)が31℃を明らかに超える中で連日、高校野球を開催する正当な理由がどこにあるだろう?

「夏の甲子園は暑いからいい」という勝手な幻想が日本中の高校野球ファンの心の奥に棲んでいる。スポーツの世界、中でも高校野球は戦前、戦中の価値観を引きずり、戦後の民主化、自由化に対応していない。大げさに言えば、日本は「戦後」を70年以上重ねてきたが、高校野球はまだ「戦後」を迎えていない。そのこともはっきりと自覚し、このような、悪しき伝統は「100回」を区切りに断ち切るべきだと、声を大にして叫びたい。

甲子園に出場できるかできないかを、命がかかっているかのような騒ぎ方をし、甲子園での勝敗に異様なまでの執着と関心を寄せていながら、勝負所の終盤でエースの強制退場を強いる球数制限を導入せよと主張する矛盾は、どう説明するのか。多くの高校野球チームでは、高いレベルの投手を二人用意するのは、目標であっても実現は難しい。球数制限を導入すれば、選手層の厚い強豪私学の天下を助長することも承知すべきだ。それが本当に、高校野球が目指す方向性なのだろうか。
「投げたい」「行けるか?」「行けます!」
こうした監督と投手の会話・決断を「野蛮」と断じる多くの日本人が、あの酷暑の中で大会を強行し、選手のみならず観客までも死に至るかもしれない危険にさらす蛮行を許容する、その不合理、論理の破綻は、偏ったセンチメンタルをはっきりと表している。国民全体がまるで洗脳されているかのように「甲子園」を信奉するマインドコントロール状態こそが深刻な問題だ。そして、メディアも大多数の国民のマインドコントロール状態に乗じて、商売を重ねてきた。

犠牲になっているのは、単純に野球が好きで野球をやりたい高校生たちだ。日本の小・中学生、そして高校生は、「夏の甲子園」があるために、野球の才能以前に、暑さと戦い、暑さを受け入れる覚悟を必要とする。それこそ、そんな理不尽があるだろうか。

高校野球の全国大会を夏休みの時期から野球に適した秋に移行するくらいはまったく可能なはずなのに、一切検討もしない、その横暴さこそが議論の対象とされるべきだろう。


小林信也

1956年生まれ。作家・スポーツライター。人間の物語を中心に、新しいスポーツの未来を提唱し創造し続ける。雑誌ポパイ、ナンバーのスタッフを経て独立。選手やトレーナーのサポート、イベント・プロデュース、スポーツ用具の開発等を行い、実践的にスポーツ改革に一石を投じ続ける。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍。主な著書に『野球の真髄 なぜこのゲームに魅せられるのか』『長島茂雄語録』『越後の雪だるま ヨネックス創業者・米山稔物語』『YOSHIKI 蒼い血の微笑』『カツラ-の秘密》など多数。