取材・文/Baseball Crix編集部 写真/榎本壯三
体が自分の意思に反する動きをして、いい結果になるまで練習した
──伝説となっている伊東キャンプ(※1)は1979年。シピン選手とセカンドのポジションを争ったシーズンの秋でした。
篠塚 ジャイアンツの若手が秋に厳しい練習をやるというのは、多摩川グラウンドでずっとやってきたことなんだよ。ただ、あの年は、スプリングキャンプのように同じ宿舎に泊まってやったことで注目を集めた。長嶋さんから伝えられていたのは、「お前たちがこれから10年、15年、ジャイアンツを支える存在になるんだ!」というメッセージ。その言葉に駆り立てられた部分はあったよ。かなり厳しいキャンプだったのに、ひとりのケガ人も出さずに終えられたのは、そういう気持ちの張りがあったからだと思う。
──10年、15年先を見据えるというのは、移籍や補強が盛んないまの球界にいる選手たちには、なかなか難しいかもしれないですね。
篠塚 それはある。少しかわいそうな部分ではある。
──具体的には、どんな練習をしていたのでしょうか。
篠塚 伊東では20日間、ずっと同じことをやり続けたんだよ。とにかく反復練習を通じて体に技術を覚えさせたんだね。そのためには人間、自分の100を出す必要がある。ある動きをへとへとになるまで繰り返しやると、同じ動きを、時間を置いて感覚を思い出しながらもう1度やってみたときに、自然に出るようになる。それがすごく大事なんだ。長いシーズンをプレーしていると、体調のせいかいつもと感覚が違うように感じる日もある。そんなときに自分の体が、意思に反するような動きをしてそれがいい結果になる、みたいなことが起きるんだよ。技術が体にしっかり染み込んでいると。野球という競技は一瞬の勝負だから。そういう反応が大事。
──事前の情報、たとえば相手投手の球種であったり、軌道であったり、そういうものを参考にして頭で考えて体を動かすだけではダメ。
篠塚 もちろんそういう情報も大事だよ。それを頭に入れると、反応も自然と変わっていく、みたいな感じだったよね。
※1 伊東キャンプの参加は18名。投手は江川卓(24)、藤城和明(23)、角三男(23)、西本聖(23)、鹿取義隆(22)、赤嶺賢勇(21)の6名。捕手は笠間雄二(26)、山倉和博(24)の2名。内野手は河埜和正(28)、山本功児(28)、中畑清(25)、平田薫(25)、篠塚氏(22)の5名。外野手は淡口憲治(27)、中司得三(26)、二宮至(26)、中井康之(24)、松本匡史(23)の5名。( )内は当時の年齢。
自分の体の限界を知るうえでも猛練習が重要になる!
──当時のジャイアンツの練習は、他の球団に比べて厳しかったと思いますか? 比較は難しいかもしれませんが。
篠塚 そう思うよ。入団が決まったときに最初に思ったのも、「厳しい球団に入ってしまった。練習についていけるかな……」ということだったのを覚えているもの。自分の場合は、高校時代に肋膜炎もやっていたこともあったからね。
──そこから、いまに至るまでを見てきて、ジャイアンツの練習はなにかが変わったと感じますか?
篠塚 キャンプでの練習のきつさなどは変わらないと思う。同じくらいの練習をやっているよ。ただ、長い距離を走ることは年々減っていったね。それについては、コーチ時代にトレーニングコーチとも議論したんだけどさ。俺としては、毎日走る必要はないけれど、強い体をつくるためにある程度は必要じゃないかと思う。次の日が休みの日なんかにやればいいんだよ。他の練習への影響も出にくいし、さぼったり体調不良を訴えたりすれば、次の日外出禁止になるのが選手もわかるので、必死になってやるから(笑)。
──1990年代ぐらいを境に、そのあたりは変わっていったような気もします。
篠塚 あとは、いまの選手はノックなんかでも飛び込んだりしなくなったよね。以前は、「ユニフォームは汚すものだ!」というのがあった。汗をかいた状態で飛び込むとユニフォームが真っ黒になるんだけど、俺は上半身にあまり汗をかかなかったから、わざと水で濡らして汚れやすくしてみたりしてね。そんなこともしていたくらいだから。既に一軍レベルに達した選手にそういう練習をしろとは言わないけれど、ファームや育成の選手は自分の100を出して、ドロドロになってほしいよね。ファンの人にそういう場面を見てもらう機会が減っているのは残念だよ。いまは大体試合でしょう? あの頃は、多摩川グラウンドで厳しい練習を見てもらっていた。必死に頑張った選手たちが育って、一軍で成功していくという感動を味わってもらえていたと思う。
──いまはもう少しスマートな感じがしますね。
篠塚 それから、若いときに厳しい練習をやって良かったと思うのは、自分の体の限界がわかるようになったことだね。これは賛否あるかもしれないけれど、自分たちの頃は、どこかが痛くても「痛い」とは言えなかったし、疲れを感じて「マッサージを受けたい」と思っても我慢することもあった。そういうのは全部うえに伝わって、使ってもらえなくなると思っていたから。もちろん、「これ以上我慢してプレーし続けるとチームに迷惑をかけそうだ」というところまできたら言わなきゃいけない。だけど、それが一体どの段階なのかは、ヘトヘトになるまでプレーしたり、練習したりするなかでわかっていったと思うんだよね。いまは、その限界がわからず無理をして大きな故障をしてしまったり、そうなるのを恐れて、本人が大丈夫だと言っているのにトレーナーなどが止めたりする。トレーナーにはトレーナーの責任があるから、止めるのはわかるよ。でも本人の意思を尊重すべき場面もある。コーチをやっているときには、その件で激しい議論をしたこともあった。頭角を現した若手が、コンディションの問題で定着を逃し消えていったことは何度もあったけれど、選手たちが、自分の体の限界を理解する経験をしていれば避けられたかもしれない。
──例外的かもしれませんが、日本ハムの大谷翔平投手の“二刀流”も、当初は負荷が大きいという指摘がありました。肉体
の限界は人それぞれなのかもしれません。
篠塚 そうだよ。我々評論家もほとんどが反対していたんだから。でもあれだけ続けているんだから大丈夫でなんでしょう。本人が自分の体の限界を理解していて、そのうえで投げるのも打つのも楽しいと感じているからやれているんだと思うよ。
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(プロフィール)
篠塚和典
1957年、千葉県生まれ。1974年、2年生にして銚子商の4番に座り、春夏連続で甲子園へ。春は8強、夏は優勝に導いた。1975年秋のドラフトで、長嶋茂雄監督の強い希望で読売ジャイアンツから1位指名を受け入団。1994年に引退するまでの19年で優勝8回、日本一3回を経験。引退後は、1995~2002年、2005~2010年と2度にわたりジャイアンツでコーチを務めた。2009年には野球日本代表の打撃コーチとしてWBCでの優勝にも貢献。