横綱育成

親方としての功績の中で特筆すべきは、相撲エリートでもなかった鶴竜を横綱に育てたことだ。モンゴル出身力士と言えば、選抜テストを勝ち抜いたり、日本の強豪校に相撲留学したりして部屋にスカウトされることが多い。鶴竜は違った。力士を志して手紙を出し、日本にやって来た。

そのときのことを井筒親方は生前、懐かしそうに「アディダスのスポーツバック一つ持って部屋に来たんだけど、最初は床山志望の子かと思ってね」と語っていた。小柄で、将来の出世など想像できなかったという。そんな中、転機となるような場面が訪れた。入門に際して日本相撲協会に面接へ行った帰り、親方は両国駅辺りで「まあ、頑張ろうよ」と何の気なしに声を掛けた。振り返ると、まだ少年だった鶴竜の笑顔。これが目に焼き付いたという。井筒親方は「何とも言えない、一点の曇りもない笑みだったんだよね。そのとき何とかこいつを立派な力士に育てなきゃいけないなと思ったんだ」。情が深まり、師弟の出世物語が始まった。

生まれたときから相撲部屋で育ち、角界のしきたりが身に染みついていた親方。上下関係や礼儀など、勝負以外の大切な事柄も鶴竜に厳しく教え込んだ。師匠の番付を超え、第71代横綱になっても師弟関係は絶対。もう1人のモンゴル出身横綱、白鵬は三本締めや万歳三唱、土俵際での駄目押しなどたびたび言動が問題視されたが、鶴竜は好対照だ。井筒親方は「外国出身の力士は育った環境が日本とは違うので、若い頃から根気強く教えてあげないと駄目。そのためには普段からしっかりと見てやることが大事だ。師匠の責任は大きい」と熱弁していた。

プロとして

現役時代から土俵を沸かせ、親方になってからは花形と言われる審判委員を長く務めた。常々「俺たちはプロ。お客さまあっての大相撲なんだ」と、自負と感謝を口にしていた。2012年春場所後、鶴竜が大関昇進伝達式で述べた口上が象徴的だ。「お客さまに喜んでもらえるような相撲を取れるよう努力します」。ファンを〝お客さん〟ではなく〝お客さま〟と称し、大事にする心意気。師匠の思いを弟子がくみ取り、異例の決意表明となった。

審判委員としても、勝負を正しく見極めることに加え、来場者を大事にする心掛けを示していた。「(土俵近くの)たまり席にはお客さまがいるでしょ? 特に年配の方だと力士が飛んできたら危ない。身をていして守らなきゃいけないんだよ」と説明していた。2016年春場所。白鵬の駄目押しによって嘉風が勢いよく土俵下に飛んできた。審判長として座っていた井筒親方は衝撃をもろに受け、左脚を骨折する重傷を負った。予測することが難しい落下だったが、観客との防波堤になる意識もあったのではないか。親方本人は多くを語らなかったが、審判という職責を全うする使命感にあふれていた。

これには後日談がある。約2カ月後、白鵬が井筒部屋を訪れて直接謝罪したといい、井筒親方からその様子を教えてもらった。「横綱がわざわざ来て、頭を下げて謝ってくれてね。そりゃ、けがをしたことは変わらないけど、もうわだかまりはないよ」との説明で、記事として報じた。大けがの原因をつくったものの、深く反省した相手を許す人情も持ち合わせていた。

プロとしての自覚は、相撲を見る確かな目にも表れている。現役時代にもろ差しが得意で、千代の富士や隆の里といった横綱を倒し、技能賞を4回獲得。親方の弟、錣山親方(元関脇寺尾)が「相撲に対しては天才でした。それをすごく尊敬していました」と証言するほどだ。

相撲の奥深さをレクチャーしてもらったことがある。2010年、白鵬が結果的に史上2位となる63連勝に突き進んでいた頃だった。白鵬の強さの秘けつについて、井筒親方は「土俵際でふっと力を抜いてまわしから手を離すんだよ。そうしたら相手ははじかれるように土俵から出ちゃうんだよね。昔、双葉山関がそんな感じだったけど、白鵬も最近、そういう相撲を取るようになってきたね」と、よどみなく解き明かした。一般的には分かりづらい感覚ではあるが、実際の文献にも双葉山がぶつかり稽古で胸を出した際、向かってきた相手が出ながら土俵際で力を抜くと、双葉山が羽目板まで飛んでいったとする目撃談も残っている。弟子の鶴竜も技巧派で、時折見せる外掛けは師匠譲り。相手の弱点を見つけた上で弟子に授けるアドバイスは的を射ていた。

繊細さ

素顔に目を向ければ、現役時代からの読書家で、そばには常に本が置いてあった。哲学書に始まり、時には太宰治の小説論に花を咲かせたこともあった。そのせいか、土俵上で暴れ回っていた力士時代の姿とは対極にあるような、繊細な印象を与える場面もあった。

日本相撲協会でも存在感があった。役員以外の親方で構成する年寄会で、2011年から3年間にわたって会長を務めた。ちょうど角界が八百長問題や相撲協会の公益法人化で揺れる中、親方衆をまとめることに尽力。信頼感を得ていた証左でもある。その後、2014年から副理事に就任して協会役員になった。2018年から亡くなるまでの間も副理事を務めていたが、2016年には一度、選挙で落選。苦汁をなめたことがあった。当時、お酒が入るとよく、思想家の吉本隆明の詩から引用した言葉を口にした。「ぼくはでてゆく 無数の敵のどまん中へ」。常に勝負の世界で生きてきた男として自らを鼓舞しているように映った。

親方が足を運んだ最後の本場所となったのが、7月の名古屋場所だった。場所前から腰痛に苦しんでいた鶴竜が徐々に調子を上げ、14勝1敗で6度目の優勝。タイを持った横綱と一緒に記念撮影に納まった。ただ、親方も場所中からしきりに「腰が痛い」と話していた。今思えば、既に病魔が迫っていたのかもしれない。千秋楽から数日後に電話をもらい「あいつ(鶴竜)は場所前、本当に腰の状態が悪くて出られるかどうかも分からない状態だった。それを考えると、よく頑張った。また落ち着いたらめしでも行こうよ」とお誘いを受けた。まさかこれが最後の会話になるとは…。関係者によると、糖尿病が悪化し、検査によってすい臓がん発覚。8月下旬から入院し、帰らぬ人となった。

9月24、25日の通夜や葬儀・告別式には一門の枠を超え、多くの親方衆や関係者が参列した。出棺に際し、おかみさんの杏里夫人がこう挨拶した。「主人らしく、全力で駆け抜け、燃焼した人生だったと思います」。相撲を愛し、力士を愛した年寄井筒こと福薗好昭さん。今でもいたずらっぽい笑顔が脳裏に浮かぶ。

高村収

著者プロフィール 高村収

1973年生まれ。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事