努力したことはない。だって楽しかったから
――ハンドボールを始めるまでと、始めたきっかけを教えてください。
「パリ生まれ(千葉県)多古町育ちです。世界でこの経歴は僕だけでしょうね(笑)ハンドボールに出会ったのは小学校3年生の頃です。兄と妹が僕より1週間早く始めていて、僕はサッカーをやろうと思っていました。でも兄妹の見学に行って座って見ていたら監督が“やってみなよ”って。そして、その体験が終わった時にはサッカーのことは忘れて、完全にハンドボールの虜になっていました。ドッジボールをしていて肩は強かったので、みんなに褒められて。上手く乗せられたのでしょう(笑)」
――ただ小中学時代は弱小チームだったそうですね。
「小学校では学年に僕1人だけ。中学校も僕ともう2人でいつも初戦敗退です。僕が1試合15点とか取っていても勝てなかったのですが、JOCの千葉県選抜に選んでもらい、学びの毎日でしたね。全部1人で運動能力に任せてやっていましたが、周りのレベルも高いから、プレーの幅が広がっていくのが嬉しくて。その感覚はいまだに覚えています」
――高校は全国的な強豪である埼玉県の浦和学院に進学されます。そのギャップに戸惑うことはありませんでしたか?
「毎日練習できることが最高に楽しかったです。上下関係自体初めてで大変なこともありましたけど、それでも毎日ハンドボールできることが楽しかったです。中学時代は週3回しか練習が無くハンドボールに飢えていたので、高校ではもの凄いストイックでした。1人で起きて朝練したり、毎日残って筋トレをしたりと。頑張っていると周りからは見られていたかもしれませんが、僕は“努力している”という感覚は一切ありませんでした」
――とにかく楽しいから自然とやっていたんですね。
「だから僕、ハンドボールでは努力したことが無いんです。なぜなら、ずっと楽しかったから。辛い時もありますが、辛い中で歯を食いしばってということではなく、なんでも楽しく感じてしまいます」
引退し語学留学のつもりでフランスへ
――インターハイでも3位になり、強豪・日体大でも大活躍。ただ卒業とともに一度は現役引退をされたんですよね。
「完全にオーバーワークでした。2年生の頃からメンバーに入って、2年と4年の時には優勝できました。でも、もともと悪かった膝を4年の時に壊してしまい、膝の名医の方にも“ずっと爆弾を抱えることになる”と言われて。実業団の誘いもあって悩みましたが、ハンドボールが好きだからこそ中途半端に続けてくなくて、引退することを決意しました」
――その後、フランスで現役復帰をされましたが、どのような経緯があったのでしょうか?
「引退して何かをやるとなった時に、ずっとハンドボールをしてきたので何も強みがありませんでした。だったらアピールポイントを作ってから就職しようと思って、フランス語が少し話せたのでフランスに留学していました。そしたらある時、向こうでできた友達と“走りに行こう”と誘われて走ってみたら痛みが無くなっていて“マジか”と。一瞬でまたハンドボールをやりたいと思いました」
――そこからどのようにプロデビューまで至ったんですか?
「本気でやるつもりは無かったのですが、趣味程度ならと思って地元のクラブに行って“どのカテゴリーでもいいから練習をさせてくれ”と。そこで紹介されたのが若手育成のための下部チームでした。そうすると、面白いように点が入っていきました。プレッシャーがゼロでしたし、またハンドボールできる喜びで、もの凄く楽しくて。だから何やっても上手くいくんですよ」
――その活躍が認められてプロ契約の話が来たんですね。
「6月くらいに次は英語圏の留学に行こうと思っていた時に、“(トップチームで)プロ契約をしてくれ”と言われました。電話が来た時は震えましたね。五輪の選手もたくさんいるようなチームで、充実した日々が続きましたね。1年目の3ヶ月くらいまではずっと楽しかったですね」
――やはり、その後は苦労もされたのですか?
「僕はセンターをやっていたのですが、フランスでは身長が小さいこともありウィング(サイド)に転向したんです。やったことないポジションでいきなりプロ契約ですから最初は何もできませんでした。毎日、本当にイチから勉強、勉強という感じで。言葉も流れの中でワッと言われたり、独特の表現をされると、分からなかったり大変でした。あとは人種差別もありました」
――やはりそうした差別もあるのですね。
「家族や友達に相談することはできて励ましの声はもらえるんですが、同じ辛さを経験した言葉じゃないので心に響かない。これは自分で切り替えないと終わらないなと思って。冬のオフシーズンに入った時にひたすらメンタルトレーニングをして原点に立ち返りました。ハンドボールは僕にとってずっと楽しいものだったので、その状況から逃れられないなら、その状況を楽しんでやろうと」
――そこから、リーグのオールスターゲームに出るほどの活躍に繋がっていくわけですね。
「2年目は全試合出場することができました。でも、最後には事件もあったんです。ずっと続く人種差別発言を気にしないように受け流しても、どこかでストレスを抱えていたのでしょう。
チームのことを考えられず、自分のことばかりを考えるようになっていました。あるとき、試合後にスコア表を見たらシュート2本中2得点のはずだったのに、4本中2得点と書かれていたんです。納得がいかなくて、それをSNSに書いたんです。
その翌日、チームメートから“お前は自分のことばかり考えている”と叱責されたんです。その時にこれまで溜め込んでいたものが爆発しました。“お前ら、俺が何をしたわけでもないのに、毎日バカにしてきただろ。それでいてチームのことを思えとまで言うのか!”とボロボロ泣きながら抗議したんです。
すると、みんなすごくショックを受けたんです。“なんで2年間も苦しんでいたのに、誰にも相談せずに言わなかったんだ”と。それ以降はパタッっと差別は終わりましたね。でも、よそよそしい感じになってしまし、3日目には“もう、また前と同じように呼んでよ”と伝えました(笑)
それでも気分は全然違いますよ。チームメイトからのそういった発言の回数は減りましたし、僕の気持ちを分かった上で言うのでストレスは格段に減りました。あと、その時言い合った選手とは前からよくぶつかっていたのですが、その事件からは親友です(笑)」
主将としてチームをポジティブな方向へ
――今季からは日本に戻られて大崎電気でプレーしています。国内復帰のきっかけは、どのようなことだったんですか?
「代表のシグルドソン監督と話す機会があり“日本に帰ってきてもいいんじゃないか?”と言われたんです。その時の目標はオリンピックに出ることだったのですが、出るからには出るだけじゃなくて結果を残したい。ただ、僕がフランスで経験したメンタリティや試合に臨む姿勢を還元させないと勝てないと感じました。
でもそれには時間がかかることで、長いこと一緒に戦うメンバーと時間を共有しなければいけないんです。フランスにいると、大きな大会の直前合宿にしか代表に参加できませんが、日本にいると全ての合宿に参加できる。そういうメリットもあって日本に戻ろうと思いましたし、自分の持つプロ意識はチームを成長させられると考えました」
――いざ戻ってきて、国内の選手たちに思うところは多くあったのではないですか?
「基本的に実業団というシステムがそのままプレーにも表れてしまっているな、と。結局、試合で結果を残そうが残さまいが生活は保証されている。でもプロだと、シーズン途中にクビになることもありますし、結果を残せなかったら職を失うんです。そういう状況にいると、一本のシュートの重み、練習や試合に臨む姿勢はまったく違ってきますよね。言葉は悪いですが、試合に入る前にフランスでは“相手を殺しに行け”というんですよ。みんな仲は良いけどやる時はやる。凄くピリついているんですけど、そういった雰囲気が国内ではまったくない。
メンタルの持ちようで結果は全然違うのに、足りないなって思いました。日本代表も最初は衝撃受けるくらいメンタル弱くて。少しずつそういったところが良くなっています。自分のおかげとは言いたくないですけど影響はあると思います」
――主将として気をつけていることはありますか?
「それがまったく無いんです。というのも、監督が日頃の行動を見てくださって主将にしてもらったので何かを変える必要は無いなと思っています。ただ、伝え方はすごく大事にしています。同じことを説明していても、タイミングや声のトーンまで考えている人と普通に話している人では、心に響く内容や受け取り方が変わってきてしまうと思うので。自然と個人を観察して元気がないと感じたら、決して上からではなく自分から話しかけます。“一緒にやろう”という言い方をします。ポジティブに、ハンドボールをより楽しくさせる方向に持っていく言葉選びをしています」
――東京五輪まであと1年を切りました。
「僕個人として明日にでもやりたいくらい楽しみです。もちろんまだまだやるべきことはあるとは思いますが、世界最優秀監督にも選ばれたシグルドソン監督のもとで自信を持って戦いたいです。そして選手やスタッフだけでなくサポーターの人も含めてチームだと思っているので、全員で成長して勝ちに行きたいですね」
(C)VICTORY
土井レミイ杏利
1989年9月28日生まれ、フランス・パリ出身千葉県育ち。浦和学院から日体大に進み大学卒業時に一度は現役引退。だがフランスリーグで復帰を果たすと、1部リーグでも活躍し2017年にはオールスターゲームにも出場。今季から日本リーグの大崎電気でプレーし、日本代表でも主将に就任した。180cm80kg。