稽古に支障が出にくい治療法として選択
鳴戸親方は2019年6月に新しい部屋開きを行ったばかり。12人の弟子を抱え、自身が稽古をつける。現在部屋を持つ親方の中で、実際にまわしを締めて土俵に上がるのは鳴戸親方だけだという。その指導スタイルを今後も続けていくために、現役時代から癖になっていて現在でも年に数回脱臼している膝蓋骨の脱臼治療に踏み切った。
親方が行った幹細胞治療は、自身の脂肪組織から培養した未分化の細胞である「幹細胞」を患部に投与して修復を促進する治療法だ。炎症を起こした部分に幹細胞や血小板が集まってきて修復が始まるという人間本来の回復機能を利用し、あらかじめ培養した大量の幹細胞を人工的に投与することで、回復力を格段に上げる。
親方は2019年9月に腹部の脂肪を採取、その1ヶ月後に膝に幹細胞を投与した。投与後はその足で立食形式のパーティーに参加。夜には新幹線で3時間半かけて巡業先に戻った。
鳴戸親方「メスを入れず、治療直後から動いていいと聞いたのですぐに弟子に稽古をつけられる。自分の細胞を使うというのも安心材料。幹細胞治療の存在を聞いてからは自分でも納得できるまで様々な情報を集めた。新しい治療法なので、弟子に勧める前に自分で試してみるという目的もあった」
想定外の痛みは、「想定内」の反応
取材時、投与から2か月が経過していた。すでに違和感はなく、部屋で稽古をつけているという。しかし、すべてが順調ではなかったようだ。幹細胞を投与してから2、3日後に痛みと腫れが表れ、その状態が3週間ほど続いたという。主治医の寺尾医師によれば、この反応はある意味「順調な証拠」だと言う。
寺尾医師「大量の幹細胞が一気に活動を開始するときに痛みが生まれ、修復のために水が溜まるのは、正常なプロセス。痛みの強さには個人差があり、親方の場合は特に強く出てしまったのでしょう。細胞がしっかりと関節の表面に張り付き、修復作業を開始した証拠です」
反応が強く出てしまった理由として考えられることが二つある。
一つ目は、脱臼を繰り返してきた関節内部が想像以上に傷ついていたため。このような場合、痛みが強く出やすいという。親方の場合、膝の軟骨が相当削られていたのではと寺尾医師は推測する。
このような反応はある意味「想定内」であり、過去同様にアスリートの治療を行った際にも、強い痛みの報告を受けたという寺尾医師。日々関節を酷使しているアスリートの体には症状として表れない小さな損傷も多く、それらが幹細胞投与によって一気に修復反応を開始することで、炎症に近い症状が生まれる。しかしこの痛みも治療の初期段階だけで、その後は通常の修復モードに移行していく。
二つ目は、幹細胞投与後のアルコール摂取だ。基本的に寺尾医師は、治療後の飲酒を禁止はしていない。しかし、アルコールが血行を促進することで細胞の働きがより活発化し、その反応が痛みとして表れやすくなる。治療結果に影響を及ぼすものではないが、「覚悟して飲んで」ということなのだろう。
痛み、腫れはすでに引いており、11月末には故郷ブルガリアへの合計20時間のフライトも支障なく終えた。機内ではウイスキーも楽しんだという親方。部屋での稽古も再開している。
寺尾医師によると、投与3か月後から大きな改善が見られてくることが多いという。
寺尾医師「初期反応を超えると、幹細胞が修復に使われて数が減っていく。しかし修復力が高い状態は1,2年ほど続きます。幹細胞治療によって、壊れにくい膝が作られるのです」
幹細胞治療は怪我の予防にも効果的。短時間・安静禁止の治療法は、休みが少ないアスリートも取り入れやすい
幹細胞治療には入院の必要がないことも、鳴戸親方にとって大きなメリットだった。
初回の診察こそ、MRI検査と脂肪組織の採取に3時間かかったが、その後の投与は15分ほど。2ヶ月後の経過観察も同じく短時間で済んだ。一年を通して長いオフがない力士たちには嬉しいポイントだ。
さらに、治療直後からトレーニングができる点も幹細胞治療の特徴の一つだ。
寺尾医師「むしろ患者さんには“安静禁止”と伝えています。関節を動かし、内部の摩擦を起こしたほうが投与した幹細胞の活動が活発になります。今回のように痛みがでる場合であっても、無理のない範囲で動かし続けてもらうようお願いしています」
もちろん、いくらいい治療法があっても、当然怪我をしないのがベスト。アスリートの活動を制限しない幹細胞治療は、怪我が起きる前の予防策の一環として取り入れることもできる。
寺尾医師「関節内部の損傷を定期的にケアすることで、脱臼や靭帯損傷、断裂という大怪我のリスクを減らすことができます。損傷が小さいうちであれば、幹細胞投与後の痛みも出にくいためトレーニングへの影響もほとんどないでしょう。関節の定期検診という考えが広まってほしいですね」
「新しいものはどんどん取り入れていきたい」と話す鳴戸親方。2019年11月に幹細胞治療を行なったことが報道された直後、各所からの問い合わせが相次いだという。現役時代は琴欧洲関として、欧州出身力士初の大関となった親方が、角界の“インフルエンサー”となる日も近いかもしれない。
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